20210620024551_00001

「うぁ~っ!」


「どうしたん?」                                                                                   


「仕事行く前に、台所片付けていったのにー!皿がまた山盛りやん!ちょっとくらい手伝ってくれてもええやーん」


 コロナ以降、クラブは閉まっているので、ダンナはずーっと家にいる。家で曲作りといっても、遊んでいる時間の方が確実に長い。


「お前なぁ、そんなこと、怒るようなことちゃうぞ」


「それでも仕事から帰って、皿洗いしてから食事の用意ってしんどいでー」


「そやけど、俺がおらんようなったら、そんな状態が懐かしくなるで」


 うーーーん・・・確かに、皿がシンクに山積みになっていること事態は死活問題ではない。


 明日、ダンナがいなくなるか、皿が山盛りでもダンナがいるか・・・と考えると、皿が山盛りの方が断然いい。心の底から納得はできないけれど、皿ごときで怒るのもどうかと思う。


 ダンナや、この国の黒人の多くは、今日の幸せが、突然なくなることを知っている。地獄のような苦しみと悲しみの中で生きている人がたくさんいる。


 皿で怒ることができる私は、ビックリするほど幸せなんだろうなぁ。


〇ブラック・ウォール・ストリート

 毎年5月の最終月曜日のメモリアル・デーは、兵役中に亡くなった兵士を顕彰し、アメリカ各地で追悼式典が催される。
 この日、人々はお墓参りへ行き、家族でバーベキューをしながら、国家のために亡くなった人々を偲ぶのである。


 その一方で、アメリカの歴史から葬られ続けた人々がいる。


 今から百年前のメモリアル・デーのことだ。オクラホマ州で、300人(推定)の黒人が虐殺される事件が起こった。しかし、人々がこの事件を知ったのは、つい最近のことなのだ。


 1890年から1900年初期、オクラホマ州タルサ市の北部、グリーンウッド地区には、約1万1千人の黒人が暮らしていた。ブラック・ウォール・ストリートと呼ばれたこの地域には、映画館、スーパー、ホテル、図書館、銀行、病院、学校など、108のビジネスが存在し、そのすべてが黒人によって運営されていた。グリーンウッドは平和で、美しく、そして人々の喜びと笑顔で満たされていた。


 ところが、その美しい街は、1921年5月31日の深夜から、たった18時間で、完全に破壊されてしまう。そして、そこで暮らす人々の生活は、この日を境に一転する。彼らは、家族、家、友人、ビジネス、財産、夢、希望、将来、そのすべてを失った。



 〇ジェノサイド(大量殺戮)のきっかけ

 事件の始まりは5月30日、黒人のディック・ローランドが乗ったエレベーターで、エレベーターガールをしていたサラ・ペイジが、悲鳴をあげたことだった。



 サラの声で駆け付けた人が目にしたのは、取り乱すサラと、逃げ去るローランドだった。そして翌朝、ローランドはレイプした疑いで逮捕される。


 実際には、エレベーターが揺れた際に、ローランドがバランスを崩してサラの腕に触れたという説が濃厚だけれど、何があったかは未だ不明だ。しかしこの時代、白人女性に叫ばれたら、黒人男性は逃げるしかない。


 その日の午後、タルサ・トリヴュートが、


「孤児を襲ったニグロを逮捕。今晩、ニグロをリンチにかける」


 という記事を掲載した。
 
 すると、ローランドを収容した裁判所に、銃を持った白人たちが集まってきた。その数は時間を追うごとに増え、午後7時には数百人、午後10時には2千人にまで膨れ上がる。そこへ銃を携帯した75人の黒人が、ローランドを守るために裁判所を訪れる。


 このとき、黒人男性と白人男性がもみ合いとなり、アクシデントで誰かが銃を発砲してしまう。そしてこれを機に、銃撃戦が始まる。


 黒人たちはグリーンウッドへ引き返したけれど、そこに完全武装した5千人の白人たちがやってきた。彼らは手当たり次第にマシンガンを撃ち放ち、各家のカーテンに火を放った。その中には警察官もいた。


 さらに空からダイナマイトを落とし、1200軒以上ものビルディングを焼き尽くした。アメリカの土地に初めて落とされた爆弾は、肌の色の違う、同じ国民に対するものだった。


 午後になり、戒厳令が出された。しかし、そのときには暴動は終わりかけており、グリーンウッドの街は消滅していた。



 6月1日、タルサ・トリヴュートは、この事件の死亡者は68人、うち9人が白人だったと掲載した。


 彼ら白人は、この事件を捻じ曲げ、そして隠蔽しようとした。家庭ではもちろん、学校でもグリーンウッドで起こった暴動について語られることはなかった。現在60歳以下の白人のほとんどは、この事件のことを知らずに育っている。


 この事件について正確な報告が行われ、オクラホマ州が虐殺の事実を認めたのは、80年後の2001年になってからだった。


  しかし、ブラック・ウォール・ストリートがあったタルサ市北部は、未だにその後遺症から立ち直っていない。


 なぜなら、オクラホマ州も、タルサ市も、土地、家、財産を奪われた住民が再建するために必要とする、経済的、精神的サポートを一切してこなかったからだ。


 その上、オクラホマ州は1984年に、この土地の真上に、高速道路(ハイウェイ244)を建設した。このことにより、北部と南部は完全に分断され、グリーンウッドの再建はほぼ不可能になった。


 2001年以降、虐殺を認めた市と州に対し、弁護団は生存者とその子孫に対する賠償を求めた。しかし、時間が経ちすぎているという理由で棄却された。その後、合衆国議会に出訴期限延長を何度か求めているけれど、いずれも否決されている。


 銀行や保険会社も彼らを無視し続けた。                                                                                 


 放火により、すべてを焼失した住民に対し、銀行は通帳がないという理由で、預金の払い戻しを拒否した。保険会社も、保険証書を持たない彼らの保障を行っていない。


 弁護士のソロモン・サモンズは、これまで数多くの保険会社と交渉を試みた。しかし、すべての会社に会見を断られた。銀行も同じだ。 


 すべてを奪われた住民が、何もかも焼き尽くされたこの土地で、経済的サポートを受けずに、どうやって生活を建て直せと言うのだ?


 この土地に病院はなく、白人居住地の南部と比較すると、住民の平均寿命は11~14年も短い。


 管工事業もない。水漏れは長時間放置されたままだ。


 グロッスリーストアの誕生を祝ったのは、つい先月のことだ。それまで彼らは、新鮮な食品を手に入れることすらできなかった。


 なぜなら、交通手段が発達していないからだ。


 この土地で、車を所有する経済力がなければ、買物はもちろん、仕事へ行くことも難しい。


 その住民の35%は低所得者だ。


 そして、家の所有率はタルサ市南部と比較すると、40%以上低い状況だ。


 さらに、虐殺に参加したタルサ警察の体質は、今も変わっていない。警察に射殺される確率は、南部の約4倍だ。そして、過去に黒人を射殺した警察官が処分を受けたことは一度もない。


 この事件の被害者、被害者の子孫が、この百年間で政府から受け取ったお金は「ゼロ」だ。


タルサ人種虐殺から100年


 タルサ人種虐殺から百年目を迎えるに先駆けて、2021年4月19日、アメリカ合衆国下院司法委員会では、この事件の出訴期限延長について、再び審議が行われた。


 今回は、この事件の生存者三人にも証言のチャンスが与えられた。


 107歳のバイオラ・フレチャー、フレチャーの弟、101歳のヒューズ・V・エリス、そして106歳のレシー・B・ランドルだ。彼らは、この機会を百年間待ち続けたのだ。


 まずは、マザー・フレッチャーの証言だ。


「今日、私は、この場所で正義を求めています。この国に、1921年にタルサで起こったことを知ってもらうために、私はここにいます・・・。


 今でも、銃撃されている黒人男性、道に倒れている黒人の姿が私の目の前にあります。煙の臭いがしています。飛行機が頭の上を飛ぶ音、人々の叫び声が聞こえます。あの日から毎日、私は虐殺の中で生きています・・・この国は事件のことを忘れているかもしれませんが、私は忘れていません・・・。


 教育を受けるチャンスを失った私の最終学歴は小学4年生です。今日に至るまで、どうにか必要なものを買うお金しか、稼ぐことができませんでした・・・。タルサ市は、私がお金に困っているにも関わらず、不当に私たち被害者の名前と、虐殺のストーリーを利用し、30ミリオンものお金を集めました・・・。


 107年の人生で、私は一度も正義を見ていません。私たちはあの日、私たちの家、教会、新聞、映画館、生活、すべてを失いました。グリーンウッドは、黒人の可能性を提示しました。私たちの象徴でした・・・。


 ブラック・アメリカンのために、ホワイト・アメリカンのために、すべてのアメリカ人のために、正義を求めます」


 アンクル・レッドの愛称で親しまれる、ミスター・エリスは、虐殺が起こったときのことは、覚えていない。


「虐殺が起こったとき、私たち家族は車で家から逃げ出しました。私たちには何も残りませんでした。私たちはこの国で難民になりました。・・・だから訴訟を起こしました。しかし、黒人の正義を求める声に耳を傾ける人はいません。


 私は第二次世界大戦で戦いました。黒人だけの大部隊でした。私は、アメリカが正しいことをしてくれると信じていました。だから自由のために戦いました・・・。


 戦争から戻ると、そこに自由はなく、差別がありました。白人兵士のように、恩恵を受ける権利はなかった。肌の色が原因でした・・・。


 私たちの願いは、自由と平等がすべての国民に与えられることです。どうか、私たちの声を聞いてください。これまでの百年間、これまでの奮闘から立ち直るチャンスをください。私は今でもアメリカを信じています。あなたが正しいことをしてくれる、正義を示してくれると、私は信じているのです」


 アンクル・レッドは、タルサでこの国から裏切られ、戦争へ行って、再び裏切られた。彼は人差し指を立て、


「私たちはひとつです。ひとつなんです・・・」 


 と、涙で声を震わせながら訴えた。


 マザー・ランドルは自宅から、ビデオ通話を使って証言した。


「あなたの目を見て、“正しいことをしてください”、とお願いできる日が、ようやく来ました。私は長い間、正義を待ち続けていました。


 百年前、私は6歳でした。私には家があり、おもちゃがあった。グリーンウッドは美しく、皆、幸せでした・・・それがすべて一転した。銃を持った白人男性がやってきて、私のコミュニティを破壊しました。彼らは家の中から必要なものを取ると、火を放った。逃げる人々を撃ちました・・・逃げ出すとき、死体をたくさん見ました。今でも忘れられません・・・私はこれまでの百年間、恐怖、つらい記憶、そして喪失の中で生き続けました・・・。


 私たちは、ただ暮らしていただけで、彼らに何もしていません。けれども、白人たちは憎しみでいっぱいでした。彼らが私たちを憎む理由は、私たちが黒人であること以外ありません・・・。


 オクラホマ州、タルサ群、タルサ市は、正しいことをする責任があります。あなた方は私たちを守らなかった・・・。


 私はずっと貧乏でした。ブラック・タルサは未だに空っぽです。ゲトーです・・・。


 これまで何度も正義を求めましたが、黒人のために、それは存在しないようです。まるで、正しいことを求める私たちが間違っているみたいです・・・。


 私は106歳です。随分長い間待ちました。疲れました。どうか、最後まで残った私たち3人に、幾ばくかの安らぎをください。そして私に、私の家族とコミュニティに、正義を与えてください」



 彼ら三人は、地獄を知っている。そして、これまでの百年間、そこに救いの手は差し伸べられなかった。彼らは、今でもその中にいるのだ。


 彼らの時間はあまり残されていない。 


 マザー・フレッチャー、アンクル・レッド、マザー・ランドルに、彼ら子孫に、タルサで亡くなった方々に、一日でも早く、正義が与えられますように!



 ↓タルサの暴動については、ブログでも書いています。ご笑覧ください。



るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。