散歩に行くたびに、ダンナはシアトルの緑の美しさに感動する。
「はじめてシアトルに来たとき、おれ、びっくりしたでー。天国かと思った」
ノースウェストは針葉樹林が広がり、真冬でも緑がいっぱい。春になると、至るところに花が咲き、色とりどりでとても美しい。夏になると空は真っ青、海や湖もあり、自然の色で埋め尽くされる。
「シカゴにも緑はあるやんっ!!!」
と、シアトルに引越してきた当初は、シカゴに帰りたくて反論していた。
しかし、冷静になってみると、たしかに私たち日本人が知っているシカゴには緑がある。けれども、ダンナが育ったサウスサイドには、ほとんど緑がなかった。
「あ~、でも緑はあるけど、シアトルには仕事がないねんなぁ・・・シカゴにおったときは、ヨーロッパツアーもあったし、週に5日はステージに立ってたのになぁ・・・」
緑を取るか、仕事を取るか・・・。
「仕事はあるけど、それだけやん!シアトルは散歩もできるけど、シカゴやったら安心して散歩もできへんで!」
・・・緑を取ったようだ。
散歩ができる場所もあるとは思うけれど、私たちが暮らしていたオークパーク(ウェストサイド)で、ウォーキングをしている人を見かけたことは一度もない。サウスサイドは、以前以上に無差別シューティングが増えている。散歩どころか、仕事に行くのも命がけだ。
「おれはミュージシャンやで!ステージに立ちたいに決まってるやん!・・・でもなぁ・・・いつもピリピリして、黒人同士で争う場所には、もうおりたくないねんなぁ・・・」
結果、シカゴには帰りたくないダンナだ。
それでも、誰かと話をするときは、ほんの短い会話の中にも、
「おれ、シカゴ出身」
というフレーズが入る。シカゴのサウスサイドで育ったことは、彼にとって誇りであり、故郷シカゴは愛しく、懐かしい場所であることに変わりない。
そう語ったのは、詩人、作家、そして教師でもある、グウェンドリン・エリザベス・ブロックス(Gwendolyn Elizabeth Brooks)だ。
1917年6月にカンザス州のトピカで誕生したブロックスは、生後6週間でシカゴへ移住した。ちょうど南部の黒人たちが、仕事とより良い生活を求めて北部へ移動する、グレート・ミグレーションの時代だった。
彼女のパパは家族を養うために、音楽会社でジャニター(用務員)の仕事をしていた。けれども、本当は医者になることが夢だった。ママは、トピカで教師をしながら、コンサートピアニストの仕事もしていた。
子供たちがクリエイティブであることを願って、パパはベッドタイムになると、読み聞かせをしてくれた。
ママは歌を教えてくれた。ブロックスの部屋には、結婚したときに、パパがママにプレゼントした本棚が置かれていた。
このような環境で育ったブロックスは、子供の頃から書くことに興味を持ち、そしてまた、類いまれな才能に目覚めていく。
ブロックスが7歳のときのことだ。彼女が提出した作品を読んだ担任の先生は、
「あなたは、この文章をどこかで盗んだでしょ!」
と言って、彼女が書いたことを信じてくれない。その構成と内容は、子供が書いた文章とは思えないほどの完成度だったからだ。
「私は盗んでません。私の作品です」
と何度言っても信じてくれない先生に、ママは、
「娘は盗んでませんよ。彼女はあなたよりも書く才能があるだけよ」
と言いに行ったというエピソードがある。
そんなママは、書くことが大好きなブロックスに、
「あなたは将来、女性のポール・ローレンス・ダンバー(Paul Laurence Dunbar)になるわよ!」
と言って、彼女をいつも応援してくれた。
ポール・ローレンス・ダンバーは、大農園時代の黒人の生活をユーモアに歌っている、19世紀から20世紀初期の黒人詩人だ。
ティーンエイジャーになると、ブロックスは多くの出版社に投稿をはじめた。
彼女の詩がはじめて掲載されたのは、アメリカン・チャイルドフッドという子供向けのマガジンで、彼女が13歳のときだった。
そして、13歳から16歳までの3年間で、75編もの詩が掲載された。
ある日、ママがハーレム・ルネッサンスの指導者、ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes)のワークショップへ連れて行ってくれた。
ハーレム・ルネッサンスは1919年から約10年間、ニューヨークのハーレムで盛り上がった、黒人のアート、音楽、文学である。
このとき、ブロックスの朗読を聞いたヒューズから、
「君には才能があるから、書き続けなさい」
という言葉をかけられる。
17歳になると、シカゴ・ディフェンダーのコラム、“ライト&シャドウズ(Light and Shadows)”で、彼女の詩が掲載され始めた。
「もうひとりの少女(1936年9月12日掲載)」
少女は知っていた。
私の激しい苦しみを。
少女は知っていた。
このつらさ、やりきれなさを。
悲しむことは許されない。
泣くことも許されない。
少女はずっと耐えてきた。
私が今、そうであるように。
彼女の作品のほとんどは、彼女が暮らすコミュニティ、彼女が言葉を交わした人々からインスピレーションを受けて書かれた。小さな二階のアパートから、まず右を眺め、次に左を眺める。それが彼女の題材となった。
トラディショナルな物語、14行詩、そして自由なブルーズのリズムの詩など形は様々だったが、多くの黒人作家から認められ始めた。
彼女は短大を卒業すると、タイピストの仕事で生活を支えながら、詩を書き続けた。1936年に結婚し、二人の子供をもうけても、彼女は書き続けた。
彼女のママがサポートしてくれたように、夫のヘンリーは、
「いいフレーズが浮かんだときは、掃き掃除や洗濯、料理はストップして、すぐに机に向かったらええからな」
と、彼女の才能を大切にし、応援してくれた。
そして1945年、彼女の詩をまとめた最初の一冊、「ブロンズヴィルの街の人々(A Street In Bronzeville)」が出版された。
ブロンズヴィルは、彼女が暮らすコミュニティだ。
この時代、シカゴのサウスサイドで生きる、彼ら黒人の生活は貧しく、決して明るいものではなかった。
黒い肌が引き起こす差別問題、貧困によってもたらされるアクシデント。そうしたものを彼女の詩は、憐れむことなく、事実だけを淡々と、正直に、それでいて生き生きとリアルに伝えた。
二冊目は、ブロンズヴィルで育った若い黒人女性にフォーカスした作品、“アニー・アレン(Annie Allen)”で、1949年に出版された。この作品が、1950年のピューリッツアー賞詩部門に輝く。黒人初の受賞だった。
「君、ピューリッツアー賞を受賞したこと知ってる?」
と、シカゴ・サンタイムズの編集者から電話がかかってきたとき、外はすでに日が暮れていた。
「えっ?!知りませんよ!」
「受賞したよ。おめでとう!」
「・・・・きゃーーーーーーっ!!!」
電気が止められていた真っ暗な部屋の中で、彼女の喜びの声が響き渡った。
翌日、リポーターやカメラマンが押し寄せてきたとき、
「電気代を払ってないことがばれるかな・・・?」
と心配していたけれど、その時には電気が通っていた。誰かが払ってくれたらしい。
その日の夜は、家族みんなで映画を観に行ってお祝いをした。
1953年、ブロックスはマウド・マーハ(Maud Marha)を出版する。
これは、はじめての中編小説で、マウドという黒人女性の生涯を綴っている。
マウドは白人だけではなく、彼女よりも肌が白い、同じ黒人からも差別を受けていた。そんな世の中で、どのように生きていくべきか迷い、悩んだマウドは、やがて差別主義者に背を向け、前進する。
ここにはブロックスの経験も含まれている。主人公のマウドはブロックスであり、登場人物の多くが彼女のコミュニティで暮らす、黒人女性の姿だった。
この作品の批評は様々で、
「貧乏で醜いマウドが、人生に勝利する物語」
という人もいれば、
「この小説は、ブロックスの人種差別と性差別に対する批判よ」
と述べる人もいる。
私個人としては、
「あなたひとりじゃないわよ」
という、彼女から同胞たちへのメッセージなんじゃないかな?と思っている。
1959年に書かれた、” We Real Cool“は、ジャズ・ポエトリーとして、最も知られる詩のひとつだ。
ジャズ・ポエトリーは、ジャズのようなリズムと即興感がある。この詩が、現代のヒップホップや、即興で詩を作るポエトリー・スラムの原点だったと言われている。
この作品の主人公は、ゴールデン・ショベルというビリヤード場にたむろしている少年たちだ。
ある日、彼女がゴールデン・ショベルの前を通りかかり、ふと店の中を見ると、そこにはゲームに興じる7人の少年たちがいた。
「彼らはなぜ学校に行っていないのかな?彼らは自分たちのことをどんな風に思っているのかな?」
世の中に犯行する彼らは、クールに振る舞っている。彼女は、そんな彼らの心と人生の闇を見つめている。
この詩ができた瞬間の様子をイメージして、切り紙の人形劇を使って作られたビデオがある。
1960年代後半は、若い人たちから詩を学んだ時期だった。
1967年、ラングストン・ヒューズが亡くなった年、彼女はテネシー州ナッシュヴィルで行われた、作家たちの集会に出席した。彼女はここで、活動家のアミリ・バラカや、ハーキ・R・マドゥブチ(Haki R. Madhubuti)に出会う。
ハーキは、1960年代半ばから1970年代にかけて盛り上がった、ブラック・アーツ・ムーヴメント(Black Arts Movement)で、黒人文学を広めることに貢献した人物のひとりである。
彼ら活動家たちは、黒人は自分たちのことをもっと高く評価し、大切にするべきだと、文学を通して訴えた。
このとき黒人文化、黒人民主主義に触れたブロックスは、その同じ年、シカゴ最大のギャング、ブラックストーン・レンジャーズ(Blackstone Rangers)を相手にワークショップを開いた。後にブロックスは、彼らをテーマにした「ザ・ブラックストーン・レンジャーズ」を出版している。
ブロックスは、彼ら若者から黒人のナショナリズムを学んだけれど、ハーキもまた、彼女の詩に多大な影響を受けた。
彼の詩は、ブロックスのリズム、自由な節、そして経験に基づいて作られるスタイルを受け継いだ。
そして、そのハーキに影響を受けたグループが、1968年、マルコムXの誕生日の5月19日に結成されたザ・ラスト・ポエッツ(The Last Poets)だ。
1960年代後半の公民権運動、黒人民主主義の達成を理想とするミュージシャンと詩人が集まるこのグループは、ブラック・パワーをスローガンに、音楽に合わせて、政治的な詩をうたった。これが、後のラップ・ミュージックの原型となる。
1968年、彼女は“イン・ザ・メッカ(In The Mecca)”という長編ポエムを出版した。この作品は、シカゴのサウスサイド、ゲトーにある、要塞のような巨大ビルディングがステージになっている。この作品には、そのビルディングで三世代にわたって暮らす家族、マルコムXやメドガー・エヴァーズなどの活動家が登場する。
多くの人々に読まれたこの作品は、ナショナル・ブックアワードの詩部門にノミネートされた。
彼女はその後、イリノイ州立大学やコロンビア大学など、いくつかの大学で教鞭をとるようになる。
どんな詩にも、誰の詩にも特別な何かがあるけれど、彼女が詩人として大切に思うことは、「ユーモア」「大胆さ」「正直」「自分の言葉で書くこと」そして、「世の中で何が起こっているかを知っていること」だ。
彼女は生徒たちに、ジャンルを問わず、できるだけ多くの書物を読み、そして心に引っかかったことを記録するように言う。なぜなら、「書く」「読む」ことにより、様々な角度から物事が見れるようになるからだ。そして、どのように自分が感じているかを表現することで、自分自身の感情に納得できるようになる。
彼ら黒人は、この国から除外され、重要ではない存在として扱われてきた。しかし、彼ら黒人ひとりひとりに、異なる才能があり、皆、なにか特別なものを持っている。
ブロックスの授業の目的は、将来の詩人を育てることではない。彼女は生徒たちに、彼らの中の憤りに気付かせ、
「他の人と同じように、あなた自身も大切な存在なのよ」
ということを伝えようとした。
大学の授業も好きだけれど、小さな子供たちのクラスは、彼女にとって最も充実した時間だ。
小さな部屋に集まった子供たちは、おばあちゃんのこと、髭や髪の毛のこと、前の日に食べたピザ、飼っている犬のことなど、様々な話をシェアする。
彼らは、その小さな頭の中に、彼らだけでは処理できないほど多くのことを抱え、そして考えている。
ブロックスは子供たちから多くのインスピレーションを受ける。そしてまた、彼女の活動が、子供たちを救うこともある。
ある日、彼女がひとつの詩を読んだ。
「おじさんは僕のことが大好きだ。好きすぎるくらい好きだ。
僕は5歳半、幼稚園に通っている。
おじさんの身長は182センチ。ポケットにはいつもお薬が入っていて、ヨロヨロ歩くので、あちこちぶつけて、7つもコブがある。
僕の家にはママ、パパ、おじさん、3人の姉妹と3人の兄弟が暮らしている。
夜になると僕たちはチェスをする。おじさんは、いつも僕の隣に座って、僕をこそばすんだ。
テレビを観るときは、おじさんは僕を膝に座らせる。おじさんが僕の耳にキスをすると、おじさんの真ん中が硬くなる。
僕がトイレに行ったとき、おじさんが中に入ってきた。そして、僕の耳の中に舌を入れて、
“ベストフレンドはどこにいる?家族やろ?俺たちは、どうやって秘密を守るか知ってるよな?”
と言った。
おじさんは僕のことが大好きだ。
僕は、それっきりおじさんのことが嫌いになった」
クラスが終わったとき、ひとりの少年が彼女のところへやってきた。
「僕の家でも同じことが起こってるんだよ!びっくりした!」
ブロックスは、そのことを先生に話すよう、彼に伝えた。
「彼がその後どうしたかは知らないけれど、役に立ったかもしれない・・・」
ブロックスは詩を書くこと、詩を読むこと、そして詩を教えることで、彼女のコミュニティの人々、すべての黒人に、彼らはひとりではないこと、すべての人々が尊い存在であることを伝えようとした。
そんな彼女の活動を最も理解しているハーキは、1990年に、彼女が教鞭をとっていたイリノイ州立大学に、グウェンドリン・ブロックス・センターを創設した。このセンターには、ブロックスはもちろん、多くの黒人作家の作品、資料が集められている。世の中の人々に黒人作家のことを知ってもらうこと、人間性を高めることを使命としている。
その他、イリノイ州の8つの公共施設に彼女の名前が付けられている。例えば、グウェンドリン・ブロックス公園、ウェンドリン・ブルックス高校学校、私たちが暮らしていたオークパークにも、グウェンドリン・ブロックス・ミドルスクールがあった。
彼女は1968年から、彼女が亡くなる2000年までの32年間、イリノイ州の桂冠詩人として務めた。詩人は任期中、詩の読み書きを深く理解し、国民の意識を高めることを目的とする。
これら施設の名前からも、彼女が文学を通して、コミュニティの人々を励まし、支え、手を差し伸べてきたことが窺える。
2000年12月3日、グウェンドリン・ブロックスはシカゴの自宅で亡くなった。83歳だった。
シカゴでの暮らしは、彼女に多様なキャラクターを与え、彼女に「書く」ことに大望を抱かせた。トピカで育てられていたら、その内容は違っていたと彼女は言う。また、彼女のジャジーなサウンドの詩は、シカゴだったからこそ生まれたのかもしれない。シカゴは彼女のヘッドクウォーターだった。
グウェンドリン・ブロックスの作品が、これからも多くの人々に読まれ続けますように!
そして、彼女の愛したシカゴのサウスサイドからシューティングがなくなり、人々が安心して暮らせる町になりますように!
るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。