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「このダンスは、ママに教えられたなぁ・・・」
「ペンギンは簡単やからお前も踊れるんちゃう?あ、ムリか・・・練習やな」
「あー、これはなんていうダンスやったかなー?これは上級者向けや」
 YouTubeでソウル・トレイン(Soul Train)を観ていると、ダンナは突然踊り出す。
 さすが、ダンス・キャピタルのシカゴ出身だけあって、ものすごく上手い。

「おれらの親と俺の世代で、ソウル・トレインを観てない奴はおらん。土曜日の午前中は、全員、テレビの前におるねん」

 ソウル・トレインは、1971年から2006年まで、35年間続いた歴史的音楽番組だ。
 この番組の所有者で、プロデューサー、そして番組のホストを務めた人物が、
「ラヴ、ピース&ソウル・・・ソウル・トレイン(Love, Peace and Soul・・・Soul Train)!!!」
 で知られる、黒人のドン・コーニリアス(Don Cornelius)だ。
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 ドン・コーニリアス(Don Cornelius)は1936年9月27日生まれ、シカゴのサウスサイド出身だ。
  高校を卒業した彼が、車や保険のセールスをする傍ら、シカゴポリスで警察官として働いていたときのことだ。
 信号無視で捕まえたドライバーが、彼のバリトンヴォイスを聞いて、
「ええ声してるなぁ、ラジオの仕事してみる気ない?」
 と、彼をリクルートした。
 その収入に魅力を感じた彼は、ただちに転職を決意する。
 そして1966年、彼は、WVON(アフリカン・アメリカンをターゲットにした、シカゴエリアのAMラジオトーク番組)に就職、アナウンサー、ニュース・レポーター、ディスク・ジョッキーとしてのキャリアをスタートする。

 その頃のシカゴは、シカゴ解放運動(The Chicago Freedom Movement)で盛り上がっていた。
 1910年から1960年にかけて、数十万人もの黒人(アフリカンアメリカン)が、アメリカ南部からシカゴへ移住した。彼らに与えられた場所は、シカゴのサウスサイドを南北に走る、ステートストリート沿いの30ブロック、東西に7ブロックのエリアだ。
 ブラックベルトと呼ばれるその場所に、約80%の黒人が詰め込まれ、中には住宅を確保できない者もいた。終戦後は、多くの人々が職を失い、そこは低所得者、売春婦、ホームレス、犯罪者の坩堝となる。
 しかし、シカゴ市はそのエリアを見捨てた。管工事は整備されず、ゴミ収集車の回収は法律で定められた回数を下回った。衛生状態は最悪となり、1940年から1960年におけるシカゴ市の乳児死亡率は16%で、他のどの都市よりも高かった。
 犯罪率、殺人率も高かったけれど、シカゴ警察は、その地域で起こる事件を、重要犯罪として取り扱わず、治安は悪化する一方だった。
 シカゴ解放運動は、住宅供給、借用者の権利獲得、教育、交通機関、雇用、刑法改善など、ブラックベルトで暮らす人々の問題、彼らの生活の質の向上を、シカゴ市に要求するものだった。
 これはアメリカ北部で行われた、最も意欲的なキャンペーンのひとつとなる。
 1966年8月5日には、マーティン・ルーサー・キング牧師が、700人の活動家たちと共に、人種による住居の分断を抗議するために、シカゴ市内を行進した。
 ドン・コーニリアスはアナウンサーとして、これら運動をリポートし、キング牧師にインタヴューをした。そして自然な形で、公民権運動に関与するようになった。
 それと同時に、彼は、
「黒人は、公民権運動か犯罪に関することでしか、ニュースで取り上げられない。おれは、もっと肯定的な、未来につながる内容で、ブラザーをテレビで紹介したい~!」
 と熱望するようになった。
 そして彼は、アメリカン・バンド・スタンド(American Band Stand)の黒人版をつくることを思いつく。これは、音楽とダンスのショウで、当時の人気番組だった。しかし、黒人アーティストが出演することは簡単なことではなかった。この頃のテレビは、白人が所有し、コントロールしていたのだ。
 しかし、シカゴのテレビ局、WCIU-TVは、ドンのアイデアを採用した。
 そして1970年8月17日、この国で、はじめて黒人が所有するテレビ番組、ソウル・トレイン(Soul Train)がスタートする。


 第1回のこの日は、地元シカゴのアーティストに出演を依頼した。ジェリー・バトラー(Jerry Butler)、ザ・シャイ・ライツ(The Chi-Lites)、 そしてザ・イモーションズ(The Emotions)だ。 
 この頃は予算が少なかったため、画面は白黒で、アーカイヴ(映像の保菅)もなかった。
 生演奏になるのはずっと後で、最初は演奏にはレコードが使われた。出演はシンガーだけで、リップシンギング(口パク)だ。 
 それでも番組がはじまると、大人から子供まで、ギャングも売春婦も、すべての黒人が、テレビにくぎ付けになった。司会者もゲストも、画面の中には黒人しかいない。彼らは驚き、そして喜びでいっぱいになった。
 

 さらに、ソウル・トレインは若者に夢と希望も与えた。この番組のダンサー、ソウル・トレイン・ギャング(Soul Train Gang)は、オーディションで選ばれたシカゴの若者だった。彼らゲトーの若者が、テレビでダンスの才能を見せるチャンスを手に入れたのだ。
 そして番組を観た子供たちは、午前中の放送で覚えたダンスを、その日の夜のパーティで踊った。
 彼らダンサーは、この番組のスターだった。
 そんな彼らの人気を示すエピソードがある。
 ひとりのダンサーの少年が、ガールフレンドをサウスサイドの自宅まで送ったときのことだ。帰り際に、彼はギャングに囲まれた。
「おまえ、どこから来た?」
「ウェストサイド」
 ウェストサイドの人間が、サウスサイドへ来ることは許されない。逆も同じ。彼は、身に着けていた貴金属と現金、すべてを奪われた。しかし、ギャングのひとりが、
「あれ???ちょっと待てよ・・・おれ、こいつ知ってるで!おまえ、ソウル・トレインに出てるやろ!」
 と気付いた。結果、彼は奪われた物すべてに加えて、バス代まで与えられて、無事に帰宅した。
 
 放送直後から、人気番組となったソウル・トレインは、放送開始1年後の1971年10月2日、そのロケーションを、シカゴからLAに移した。
 ちょうどモータウンが、デトロイトからその拠点をLAに移した頃だった。
 とはいえ、最初の1年間は出演者探しに奔走した。
 グラディス・ナイト&ザ・ピップス(Gladys Knight&The Pips)、BB・King、ザ・ステイプル・シンガーズ(The Staple Singers)、カーティス・メイフィールド(Curtis Mayfield)、ザ・オー・ジェイズ(The O’Jays)は、出演者を見つけることに苦悩するドンをサポートしたアーティストたちだ。
 なかでも、シカゴ代表ポリティカル・シンガーのカーティス・メイフィールドは、ドンの依頼を一度も断らなかった。
 ドンが、その苦悩の終わりを感じたのは、1972年4月22日、シーズン1の最終回に、ティナ&アイク・ターナー(Tina&Ike Turner)がゲスト出演したときだった。
 放送エリアも、7都市から、なんと、56都市にまで増えていた。
 黒人のドン・コーニリアスが、たったひとりで、このような人気番組を生み出した・・・これは信じ難いことだった。ジェイムズ・ブラウン(James Brown)は、
mhh6j11「おまえのバックは誰や?」
「おまえはこの番組を誰と一緒にしてるねん?」
「おまえの背後には誰がおるんや?」
 と、彼とすれ違うたびに、同じ質問を3度繰り返したというエピソードがあるほどだ。

 シーズン2になると、マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye)、スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder)、ジャクソン5(The Jackson 5)、テンプテーションズ(The Temptations)など、モータウンの黒人アーティストも多く出演するようになる。
 彼らは、テレビ出演のチャンスを得て、黒人以外の人種からも注目されるようになる。その視聴者数は4百万人以上だ。

 しかし、この番組のスターは、やはりダンサーだった。
 番組の中でも、特に盛り上がったコーナーが、両脇に人が並び、その間を踊りながら通り過ぎるソウル・トレイン・ライン(Soul Train Line)だ。



 ダンサーは、ペンギン、ロボット、ムーンウォーク、ポッピングなど、次々と新しいダンスを生み出し、視聴者はそれをコピーした。あのマイケル・ジャクソンも、そのひとりだった。



 子供たちがコピーしたのはダンスだけではない。ベルボトム、プラットフォーム・ブーツ、ラッフルシャツ、アフロ、彼らのファッションもコピーした。

 ソウル・トレイン・ギャングは、その時代のファッションリーダーでもあった。

 そして、この頃から少しずつ、それぞれがダンサーとしてのキャリアを生かして、チャンスを獲得しはじめた。

 さて、誰もが知っている、オープニングの曲、「TSOP(The Sound Of Philadelphia)」は、シーズン3の途中で登場する。


 実は、この曲のタイトルは「ソウル・トレイン」になる予定だったけれど、ドンはそれを許さなかった。彼は、「ソウル・トレイン」という名前を守った。しかし、この曲がビルビードで1位になったときは、
「アホなことした」
 と、その決断を悔やまざるを得なかった。
 
 このオープニングでも紹介されるスポンサー、ジョンソン・プロダクツ・カンパニー(Jonson Products Company)は、1954年に、黒人のジョージE・ジョンソンがシカゴに設立した、黒人用ヘアケア、コスメティック製品の会社だ。ソウル・トレインは、ジョンソン製品の宣伝に、打ってつけの番組だった。



 「黒人は美しい(Black is Beautiful)」、「自然のままが美しい」と、黒人に語りかけるコマーシャルは、彼ら黒人に、その肌の色に自信と誇りを与えた。
 そして、商品の売り上げは、7ミリオンから40ミリオンまで上昇し、店舗も20店舗から150店舗まで拡大した。ジョンソン・プロダクツ・カンパニーは、アメリカの証券取引所で、最初に取り扱われた、黒人が所有する会社となった。 

 しかし、ソウル・トレインの恩恵を受けたのは、黒人だけではない。
 シーズン4になると、ジノ・ヴァネリ(Gino Vannelli)、エルトン・ジョン(Elton John)、デヴィット・ボウイ(David Bowie)、アヴェレージ・ホワイト・バンド(Average White Band)、ティーナ・マリー(Teena Marie)などの、アーティストもゲスト出演する。
 彼らの演奏は、黒人のテイストがあり、とってもカッコいい。
 番組出演後、彼らは多くの黒人ファンを得た。もちろん、チケットの売り上げも大きく上昇した。

 しかし、時代は変わる。 
 1975年以降、世の中の人気は、ファンキーなソウル・ミュージックから、ディスコへと変わっていく。
 そして、1980年代に入ると、ビルボードの1位は、ヒップホップが占めるようになった。
 ドンは、これらの音楽が好きではなかった。オールドスクールの彼には、ヒップホップも、その性的で挑発的なダンスも理解することができなかった。
 それでもビルビードの上位を占める限り、そのアーティストをゲストとして呼ばなければならない。彼は、視聴者が求める音楽を放送する、ビジネスマンとして仕事をしなければならなかった。

 1993年5月10日、ドン・コーニリアスは、22年間続けたホストとしての仕事を退いた。彼は、10年前に行った、脳の手術の後遺症にずっと苦しんでいた。
 2012年2月1日、彼は自らの命を絶つ。彼は、その痛みに耐えることができなかった。

 ドン・コーニリアスは、ソウル・トレインという番組を通して、毎週土曜日の午前中、すべての黒人をテレビに向かわせ、黒人コミュニティをひとつにした。
 画面の中のアーティストやダンサーは、彼らに自信と誇りを与え、ジョンソンのコマーシャルは、黒い肌と縮れ毛の美しさを伝えた。
 そして、1970年代のアーティストにとっては、大きな分岐点となった。
 ソウル・トレインはただの音楽番組ではなく、この国のアフリカン・アメリカン、黒人の歴史、文化、生活、そして誇りだった。 
 ソウル・トレインは2006年3月27日で番組を終了したけれど、1983年から始まった、ソウル・トレイン・ミュージック・アワードは、今でも毎年行われている。このアワードは、アフリカン・アメリカンの文化、音楽、エンターテイメントの分野で、その年に活躍した人々を称えるものだ。
 ドン・コーニリアスは、音楽とダンスを通して、黒人の地位を高めることに貢献した。そして、彼が守りたかった「ソウル・トレイン」は、今も黒人たちに引き継がれ、守り続けられている。

 ドン・コーニリアスが黒人コミュニティに送り続けた、「愛(Love)」「平和(Peace)」「黒人の魂とその情熱(Soul)」のトレインが、ファンキーな音楽を流しながら、これからもずっとずっと走り続けますように!



るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。

http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/