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〇2月はブラック・ヒストリー月間

「この国は俺らのことをリスペクトしないけど、この国をつくったのは俺らやっ!

 俺らは、あいつら白人よりも先に、この国におったんじゃー!!!

 ピラミッドをつくったのは俺ら黒人や!

 ロックもブルーズも、全部、黒人がつくった音楽や!

 教科書に載ってることは、白人が教えたい内容だけや!

 俺ら黒人は、もっともっと自分たちのルーツを知る必要があるっ!」

 2月はブラック・ヒストリー月間。ダンナのプリーチングも、いつも以上に力が入る。

 テレビやソーシャル・メディアでは、奴隷解放や、公民権運動に貢献した人々が、毎日次々と紹介される。


 ダンナが言うように、奴隷船が、新大陸のアメリカへやってきたのは1619年、アメリカ建国(1776年)の157年前だ。

 アメリカを占拠したスペインは、新しい植民地でサトウキビ、たばこ、綿花を栽培しようとした。しかし、労働者が足らない。そこで、アフリカから人間を輸入することにした。

 彼ら奴隷は、土地を整備し、農地を耕して、この国の経済を発展させた。

 南北戦争が終わる1865年までの246年間、彼らは奴隷として、この国を支えてきた。

 2021年現在、アメリカが誕生してから245年が経過した。

 この国は、彼らが奴隷として過ごしてきた年月に、やっと追いつくのだ。

 奴隷の歴史は、まだまだ過去のことにはできないのである。


 奴隷の定義は、人間としての権利をはく奪された、法的に認められた他人の所有物だ。所有物である彼らは、所有者に服従し、無償で労働を提供しなければならない。

 奴隷船で新大陸に連れてこられた彼らは、オークションにかけられた。奴隷1人の平均価格は1500ドルだ

 プランテーション(農園)のオーナーは、農作業に必要な牛、ヤギ、道具を買うように、奴隷を購入した。

 頭が良く、数字に強い奴隷はブックキーパーとして、見た目がイタリア人のような奴隷は売春婦として、南部へ売りとばされた。 

 奴隷は教育を受けること、自分の国の言葉で話すことも許されなかった。結婚は許されたけれど、彼らは、あくまでも奴隷だ。

 例えば、違うプランテーションで働く奴隷が結婚する場合、嫁が夫となる人のプランテーションに売られて、同じ場所で生活することもあれば、別居状態で暮らす場合もある。

 別居の場合、時々会うことはできるけれど、次に再会できるかどうかはわからない。奴隷マスター(主人)は、自分の利益になると思えば、奴隷家族から父親を奪い、子供を奪い、他者へ販売する。彼ら奴隷は、常に、家族と引き裂かれる環境におかれていた。

 1800年代初期、このような奴隷制は神に背く行為だと考える人々が現れた。

 白人のクエーカー(キリスト教友会)の奴隷制度廃止論者たちだ。

〇北部への逃亡

 1831年、彼らは南部の奴隷を北部へ逃亡させるためのネットワーク、「アンダーグラウンド・レイルロード(地下鉄道)」を組織した。

 そのネットワークは、ケンタッキー州、ヴァージニア州、メリーランド州を中心に組織された。メンバーは、聖職者、農民やビジネスオーナー、アメリカン・インディアン、フリーマン(生まれつき奴隷から解放されている人)、そして元奴隷たちだ。 

 アンダーグラウンド・レイルロードでは、隠れ場所となるシェルターを「駅(ステーション)」と表した。そして、逃亡者は「乗客(パッセンジャー)」、ガイドは「車掌(コンダクター)」と呼ばれた。

 奴隷たちは、約束の地(プロミスランド:カナダ)へ向かう、この列車をフリーダム・トレイン、もしくはゴスペル・トレインと呼んだ。

 そして、このゴスペル・トレインの車掌として、最も活躍した女性が、ハリエット・タブマンだ。

 

ハリエット・タブマンという女性

 ハリエット・タブマンは1820年初期、メリーランド州のドーチェスター群で、奴隷の娘として誕生した。

  ハリエットは、両親を含めて11人家族だった。

 ある日、姉妹喧嘩でうるさくしたという理由で、二人の姉が南部のチェイン・ギャングに売られた。ひとりの姉には、子供が二人いた。

 チェイン・ギャングは、鎖で互いにつながれた犯罪者のグループのこと。彼らはそのままの状態で、刑罰として重労働を強いられる。

 このとき、ハリエットは突然姉を失い、両親は娘を失った。そして二人の子供は母親を奪われた。

image (1) ハリエットは姉を奪われた悲しみと怒りでいっぱいだった。

 しかし、彼女もまた、他のプランテーションに雇用され、両親から引き離されてしまう。

 彼女の仕事はマスクラット(ねずみ科の動物)の罠をチェックすること。

 このとき、彼女はたった5歳だったにも関わらず、新しいマスターの暴力に、ひとりで耐えなければならなかった。

 しばらくすると、湿地帯の寒い気候が原因で、彼女は病気がちになり、元のプランテーションに払い戻される。

 ママの看病により、ハリエットは健康を取り戻すけれど、元気になるやいなや、マスターは、彼女を別の場所へ売り払った。

 ハリエットのここでの仕事は、部屋の掃除と赤ん坊を泣かさないことだった。そうはいっても、赤ん坊は泣く。そして、赤ん坊が泣くたびに、女主人は牛皮の鞭で、ハリエットを容赦なく打った。

 ある日、ハリエットは、ツボの中に入っている砂糖を見つけた。彼女はこれまで砂糖など食べたことがなかった。そーっと指をツボの中へ入れて、その指を舐めた。次の瞬間、背中を向けていた女主人が振り返り、激しい鞭が飛んできた。

 ハリエットは、その場から逃げ出したけれど、他に行き場はない。5日後、お腹を空かして戻ってきた彼女を、女主人は木に縛りつけると、激しく鞭で打った。その傷は、彼女が亡くなるまで消えることがなかった。

 再び、プランテーションへ送り返された彼女の仕事は、農園での労働や薪割りなど、男性がする仕事だった。

「私たちの家族が引き裂かれることも、マスターから暴力をふるわれることも、なにもかも間違っている!私たちはいつか自由になる!」

 自由になる方法はわからない。しかし、彼女は神の存在を信じていた。

 キリスト教の信仰は、激しい抑圧の中で生きる奴隷たちに、革命の光、希望を与え続けた。

 彼らは、マスターが眠った後に集まり、祈りをささげた。彼らは神と語り、神は彼らに権限、力、そして慰めを与えた。心が弱り果てたとき、神は傍らにきて、喜びを与えた。そこには、マスターには見えないチャーチがあった。

〇13歳のとき

 ハリエットが13歳のとき、彼女は奴隷の青年が逃亡する場面に出くわした。そのとき、マスターは、逃げる青年に向かって、2パウンドの鉄の塊を投げつけた。

 しかし、その塊は、青年ではなく、彼女のおでこに直撃した。

 その事故の後、彼女は激しい頭痛や、てんかん発作に襲われるようになった。また、突然倒れて、眠りに落ちることもあった。眠っているとき、彼女は不思議な幻影をみていた。ハリエットは、その幻影を、神からの啓示だと捉えた。


 1844年、23歳のハリエットは、5歳年上のジョン・タブマンと結婚した。ジョンはフリーマンだった。彼の母親がフリーだったからだ。

 フリーマンの身分は、その母親がフリーであれば、生まれた時点で手に入れることができる。

 マスターから自由を買い取る方法もあった。お金を払い、裁判所で証明書を発行してもらう。

 また、フリーマンが奴隷を買い取り、解放させる方法もあった。ドーチェスター群の北東に位置するキャロライン群には、フリーマンの大きなコミュニティがあり、奴隷解放に大きく貢献した。

 しかし、フリーの夫が、妻となる女性を自由にすることはできない。ハリエットは奴隷だったため、彼らの生まれてくる子供も奴隷だ。彼女はマスターから、自由を買い取ろうとした。しかしマスターは、ハリエットがどれだけお金を払っても、彼女を自由にしなかった。


 1849年、彼女のマスターは、ハリエットと、彼女の2人の兄弟を、南部へ売ることを決定した。それを知った彼女の選択は、「死」、もしくは「自由」だった。

 そんなある日、ひとりの白人女性がハリエットに近付いてきた。

 ハンナ・リヴァトンだ。白人の彼女と、亡き夫のジェイコブは、クウォーカーの奴隷解放主義者で、アンダーグラウンド・レイルロードのエージェントだった。

 ハンナは、

「もし助けが必要なときは、私の家に来なさい」

 と、ハリエットにささやいた。

 ハリエットの兄二人は、捕まることを恐れ、途中で引き返したために、彼女はたったひとりでハンナの家へ向かった。

 彼女を家に招き入れたハンナは、

「あなたは何をしているのかわかっているの?」

「あなたは家族に二度と会えなくてもいいの?」

「気候も環境も大きく違うカナダで、生活する覚悟はあるの?」

 と質問した。

 ハリエットが、すべての質問に、

「イエス」

 と答えると、ハンナは北極星の見つけ方と、次のステーションにたどりつく方法を教えた。各ステーションの距離は16キロから30キロだ。

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〇奴隷キャッチャー

 ハリエットは、懸賞金目当てに、逃亡者を捕まえる、奴隷キャッチャー(スレイヴ・キャッチャー)に見つからないよう、夜になってから行動を開始した。

 ひと目につく道を避け、時には川を横切らなければならない。川の中には、蛇や危険な生き物が潜んでいるかもしれない。また、次の一歩で深みにはまったら、溺れてしまうかもしれない。

 ハリエットは145キロの道のりを歩き続け、ついに、ペンシルベニアに到着した。

 奴隷解放宣言以前、アメリカには奴隷の使用を合法とする奴隷州と、法律として認めていない自由州があった。ペンシルベニアはメリーランド州から一番近い自由州だった。

「州境を超えたとき、自分が同じ人間かどうか確かめるために、両手を見た・・・。その手は、以前と同じだった。私は、私自身を変えることなく、そのままの姿で、自由を手に入れたのよ!

 何もかもが素晴らしかった。大地を照らし、木々の間から差し込む太陽の光は、ゴールドのように輝きを放ち、まるで天国にいるような気分だったわ!」

 と、ハリエットはそのときの気持ちを表した。カナダへは行かず、ペンシルベニアで仕事を見つけた

 しかし、ペンシルベニアで彼女を歓迎してくれる人はいなかった。人々は、奴隷制には反対するけれど、彼らアフリカンアメリカンと、共に生活することを喜んでいるわけではない。違うことといえば、労働の代償に、お金が支払われることだけだ。

「私は見知らぬ土地に住む、見知らぬ人だった・・・。私の家は、私の家族、友人がいるメリーランドだ・・・私だけではなく、彼らも皆、自由にするべきなんだ・・・神は、人々を自由にすることを、私に望んでいる!」

 ハリエットは、アンダーグラウンド・レイルロードのコンダクターになるために、ウィリアム・スティルを訪ねた。

 フリーマンとして生まれたウィリアム・スティルは、アンダーグラウンド・レイルロードの父と呼ばれた人物だ。

 そんなとき、ハリエットの二人の兄が、南部に売られたことがわかった。

 彼女は、南部へ向かうために、再び奴隷州に足を踏み入れた。奴隷キャッチャーたちは銃を担ぎ、犬を伴い、逃亡者を捕えるために目を光らせている。

 ハリエットは危険を回避し、兄たちを連れて、無事にペンシルベニアへ戻ってきた。

 次に、彼女は年老いた両親、そして妹夫婦を連れ出した。

 そして、他の奴隷たちを北へ導いた。彼女は、その多くをカナダへ逃亡させたけれど、アメリカ合衆国内に残る者もいた。

 年寄りの逃亡には馬車を必要としたため、さらなる警戒と緊張を強いられた。

 奴隷キャッチャーが近くにいる場所で、小さな子供が声をあげたら一貫の終わりだ。

 川を渡ることを恐れ、引き返そうとした乗客もいた。

 そんな時、彼女は奴隷キャッチャーから乗客を守るために携帯している銃を、その乗客に向けた。

 途中下車は許されない。

 それは、ネットワークに関わる、すべての人々が危険にさらされることを意味する。

 彼女は逃亡を望む乗客のために、我が命を捧げる一方で、このネットワークを守るために、乗客の命を奪うことも覚悟し、このゴスペル・トレインの車掌を務めた。

 そんな彼女の懸賞金は、彼女の生死に関わらず、4万ドル(約400万円)だった。

 ハリエットは、その後8年間で19往復し、300人以上の奴隷を逃亡させることに成功した。

 「私は私の汽車を一度も脱線させることなく、ひとりの乗客も失わなかった」

 彼女が、乗客に向けた銃の引き金をひくことは、一度もなかった。

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 これら300人の自由のために、自分自身の人生を危険にさらした彼女のことを、人々は、“モーゼ”と呼んだ。

 モーゼは奴隷状態だったヘブライ人の子供たちを、エジプトから連れ出し、約束の地へ導いた人だ。

 アメリカの“モーゼ”は、

「それは私じゃなくて、神様だった。私は神に、“あなたを信用しています“と、いつも言っていた。

 私はどこへ行くか、何をすればいいのかわからなかったけれど、神様が導いてくれると思っていた。そして、神様はいつもそうしてくれた」

 と語る。


 実は、彼女が解放した奴隷は300人だけではない。

 1861年、南北戦争が勃発すると、連合国側のテリトリーを熟知するハリエット・タブマンは、合衆国軍のスパイとしてスカウトされた。

 彼女は、敵側のプランテーションへ侵入し、連合国軍とマスターたちの居場所を聞き出した。

 さらに、彼女はそこにいる奴隷たちに逃亡するよう説得し、800人の奴隷を船に乗せ、北部へ移動させることに成功したのだ。 


 1863年1月1日、エイブラハム・リンカーン大統領は、奴隷解放宣言に署名をした。

「すべての奴隷を解放したい」

 というハリエットの望みが届いた瞬間だった。


 終戦後、彼女は、自宅があったニューヨークへ戻り、女性解放、女性参政権の活動に尽力した。

 また、逃亡者、ホームレス、老人たちのために自宅を開放し、彼らの再出発をサポートした。

 彼女の人生は常に貧困だったけれど、彼女はいつも、自由に感謝していた。そして、他の人たちにも、その自由を与えるために、彼女は自分自身の人生を捧げた。

 彼女の最後の言葉は、

「あなたのための場所を用意しましょう」

 だった。


 それほど遠くない昔、自由を求めて、ハリエットのゴスペル・トレインに飛び乗った乗客がいた。彼女に新しく生きる場所を与えられた奴隷たちの子孫は、今もこの国のどこかで生きている。

 ハリエット・タブマンが、彼ら奴隷たちのために、命をかけて手に入れた自由、権利、そして尊厳が、これからも大切に引き継がれていきますように!


るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。

http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/