〇 強い女とは
このアメリカに、黒人女性副大統領が誕生した。
二世代にわたる、二人の草分けの女性がひとつになった瞬間だ。
バイデン&ハリスが政権をとることが決定した翌日、ダンナがケンおじさんと電話で話をしていた。
「おじさん、カマラ・ハリスのこと、どう思う?そうやろー!!この国の黒人の女は強いでー!俺も正解やと思うわ。この国を変えるには、黒人女性の力が必要やで!」
と、「黒人の女は強い」を連発していた。
ダンナは反抗期の頃に、一度だけ、大好きなおばあちゃんに口ごたえをした。年老いたおばあちゃんは、杖なしでは立っていることすらできない状態だったけれど、ダンナの言葉を聞いたその瞬間、胸に向かってナイフが飛んできたそうだ。
黒人街で育った子供たちが、目上の人、特に女性に対して、口ごたえをすることは絶対にない!と、ダンナが断言する理由がよくわかる。
黒人女性にジョークは通用しない。ソーシャルメディアでは、“あの小さな女の子は私だった”というタイトルの絵が、拡散された。
その絵には、ダークスーツに身をつつみ、ヒールをはいたカマラ・ハリスが、黒いバッグを持ち、颯爽と歩いている姿が描かれている。しかしよく見ると、その影は、ハリスではなく、1960年に、はじめて白人学校に通ったルビー・ブリッジなのだ。
この絵は、彼らの成功を見たくない人々に対して、強靭な心を持って立ち向かう、二人のパワフルな女性を象徴している。
これは、62歳の黒人のゴードン・ジョーンズと、23歳の白人のブリア・ゴーラーがコラボレートして、創り上げた作品で、
「カマラ・ハリスはホワイトハウスにひとりでやってきたのではない。彼女がここに来るまでには何十年もの月日がかかり、ルビーをはじめ、公民権運動のために戦った人々がいる」
というメッセージが込められている。
ルビー・ブリッジズのママ、ルーシー・ブリッジズも強い女性だ。
彼女はルビーが本を出版した11月10日に、86歳で亡くなった。
ウィリアム・フランツ小学校へ我が子を入学させた、ルーシーの決意と勇気は、ルビーだけではなく、将来の黒人の子供たちの為に、多くの異なる人生を開くことにつながった。
「現在に至るためには、われわれは1960年に経験したことを耐え抜かなければならなかった」
今から60年前、1960年11月14日、ニューオーリンズにある、白人だけが通う小学校に、ひとりの黒人の少女が入学した。
これはアメリカ南部において、初めての出来事だった。
この日、6歳のルビー・ブリッジズは、大統領が派遣した4人のUSマーシャル(連邦保安官)と、ママのルシールに付き添われて、ウィリアム・フランツ小学校の校舎をくぐった。
バリケードが張られた学校の前には、多くの人々が集まり、ルビーに向かって罵声を浴びせ、物を投
げつけてきた。そして、ルビーが校舎の中へ入るやいなや、白人の親たちは、我が子を連れだすために、一斉に中へ入ってきた。
この日、黒人のルビーがそこにいるという理由だけで、フランツ小学校から500人の子供が消え去った。
ルビー・ブリッジズは、1954年9月8日にミシシッピ州のタイラータウンで生まれた。
ルビーが4歳のとき、パパのエイボーンとママのルシールは、良い生活を期待して、都会のニューオーリンズに引越をした。
ルビーが生まれた同じ年、合衆国連邦裁判所は、ブラウン対教育委員会(Brown V. Board of Education )という裁判で、「公立学校における人種差別待遇廃止」を言い渡した。
この判決は、1896年に最高裁判所が、プレッシ―対ファーガソンの裁判で決定した、
「分離すれども平等」
を覆す、画期的な判決だった。
「分離すれども平等」は、トイレ、カフェ、列車、学校などの公共施設は、分離していても、そのクオリティが同じであれば平等(分離すれども平等)と見なし、憲法第14条の「アメリカ合衆国のすべての市民は憲法の元に平等」に違反しない、というものだ。
とはいっても、そのクオリティには歴然の差があった。そして、その分離と不平等の状態が、合法的に約60年間続いていたのだ。
これに対し、ルイジアナ州議会は、連邦裁判所の決定にあらゆる手段で対抗し続けた。そして1960年に、ようやくニューオーリンズの小学校での統合を開始した。
6歳のルビー・ブリッジズは、その小さな肩に、統合という大きな任務を背負って、ウィリアム・フランツ小学校へ入学した。
しかし、その戦いは決して容易なものではなかった。
暴徒たちは小さなルビーに対し、怒りを露わにした。
人々は「統合反対!」という抗議のサインを掲げ、ハイスクールの男子たちは、
「栄光、栄光、人種差別、南部は再び立ち上がる!」
と歌った。
またある時は、木製の棺桶に入った、黒人の人形を見せつける女性がいた。この後、ルビーは毎晩のように、怖い夢を見るようになった。
数人の白人の生徒が学校に残っていたけれど、ルビーには、カフェテリアへ行くことや、休憩時間に他の生徒と過ごすことが禁じられていた。彼女は学校で、いつもひとりだった。
もちろん、ルビーの家族に対しても嫌がらせは行われた。
パパは仕事を失くした。
ミシシッピのおじいちゃんとおばあちゃんは、25年間以上働き続けた農園から追い出された。
グロッスリーストアは、ママが店の中に入ることを許さなかった。
しかし、ママのルシールは、ルビーに心を強く持つよう励まし続けた。ルビーが無事に校舎の中に入ることを、毎日祈り、決してあきらめることはしなかった。
ママは、ルビーが白人学校へ行けば、必ずより良い教育を受けられると信じていたのだ。そして、将来の黒人の子供たちのためにも、しなければならないことだと考えていた。
アマゾンプライムで「ルビー・ブリッジズ」(英語版)
ルビーは、外には怖い人がたくさんいるけれど、教室の中に入ると、安全だと感じることができた。担任の、ミセス・ヘンリーがいたからだ。
ボストン出身の、新任のバーバラ・ヘンリーは、ルビーを担当することに同意した、ただ一人の先生だった。はじめて会ったとき、彼女は、両手を広げてルビーを迎えてくれた。
ヘンリー先生は、外にいる怖い人たちと同じ肌の色をしていたけれど、ルビーをとても可愛がり、サポートしてくれた。授業だけではなく、世の中から追放される、迫害されるという、ルビーにとっては難しい経験についても、支えてくれた。
ルビーはヘンリー先生のことが大好きになった。
けれども冬休みが終わると、ルビーはストレスのサインを見せ始めた。怖い夢で目を覚まし、真夜中にママを起こすようになった。
ランチが食べられなくなった、彼女は他の生徒たちと一緒に食べたかったのだ。ママが持たせてくれたサンドウィッチは、教室のロッカーの中に隠されていた。
児童心理学者のロバート・コールスは、そんなルビーのために、週に一度、ボランティアでカウンセリングをしたいと申し出た。彼は、小さなルビーがこのプレッシャーをどのように耐え抜くのか、とても心配していた。
彼のワイフもルビーのことを気にかけていた。彼らもまた、ヘンリー先生と同じ、白い肌をしていた。
そんな彼らの勇気に影響を受けて、白人を含む、コミュニティの人々が、次第に家族をサポートしてくれるようになった。
近所の人は、パパに仕事を見つけてくれた。
ボランティアで、ルビーの弟と妹のベビーシッターを引き受けてくれる人、家を守るために見張りをしてくれる人、登下校の間、マーシャルの後ろを歩いてくれる人、皆が、それぞれ異なる形で、彼らに手を差し伸べてくれた。
なかにはお金を送ってくれる人もいた。
そしてルビーは1年間、一度もクラスを休まなかった。
1963年、画家ーのノーマン・ロックウェルは、ルビーが初めてウィリアム・フランツ小学校へ登校する姿を再現した。
“私たち皆が抱えている問題”、というタイトルのこの絵には、小さな黒人の女の子が、4人の白人の男たちに守られて、学校へ行く様子が描かれている。
マーシャルのチャールス・バークスは、
「彼女が示した素晴らしい勇気を、誇りに思っている。彼女は決して泣かず、メソメソすることもなく、小さな兵士のように、行進をしていた」
と話していた。
この絵は、マサチューセッツ州のストックブリッジにあるノーマン・ロックウェル・ミュージアムのコレクションとして残されている。
2011年、バラック・オバマ大統領は、4か月間、ミュージアムからこの絵を借り出した。ルビーがウィリアム・フランツ小学校に入学した日から50年が経っていた。
この絵が、ホワイトハウスのウェスト・ウィングに飾られたとき、オバマ大統領はルビーをホワイトハウスに招待した。
ルビーが待っていた部屋に、扉を開けてオバマ大統領が入ってきた瞬間、彼女の中で、
「私たちは、アフリカン・アメリカンの大統領を得たんだ!」
ということが現実になった。
彼女は、オフィスの人から説明されたとおり、自分の手を彼に差し出すと、大統領は両手を腰にあて、
「冗談でしょ?ハグをしてくれるんじゃないの?」
と言い、両手を大きく広げ、ルビーを抱きしめてくれた。
オバマ大統領の肩越しに、涙を流している、12人の人々の姿があった。
このときルビーは、時代の訪れを知った。
私たちがこれまで行ってきたこと、犠牲にしてきたこと、抗議運動や失われた命、これらすべてがあったから、今、二人はこのホワイトハウスで時間を共にしている。
ルビーの活動家としての人生は、1993年に、彼女の弟のマルコムが、ドラッグ関連の事件で殺害されたときから始まった。
ルビーは、マルコムの4人の子供たちの面倒を引き受けた。その子供たちが、ウィリアム・フランツ・小学校に通っていたのだ。
再び、母校に足を踏み入れたルビーは、これをきっかけに、全国の小学校を訪問し、子供たちに彼女の経験を語り継ぐ活動を開始した。
ルビーは6歳のとき、ミセス・ヘンリーや、ロバート夫妻と出会い、肌の色だけで、その人のことを判断してはいけないことを学んだ。
人間は生まれたとき、肌の色を理由に誰かを嫌う、という感情を持っていない。大人が、そのような考えを子供たちに植え付け、人種差別を生かし続けているのだ。
そのように考えると、大人は子供たちに、人種差別をしないことも教えることができる。彼女は、人種差別問題を乗り越えるためには、子供たちの力が必要だと確信している。
また、ルビーは、同じ肌の色をしているという理由だけで、その人を信用してはいけないこと、その人の内面を見ることの大切さも子供たちに伝えている。
2005年、ドライブ・バイ・シューティングで、ルビーの息子の命を奪った男は、彼と同じ肌の色をしていた。
彼女は、人種差別、偏見、先入観を失くすことを目的に、活動を続けている。
2020年11月10日、ルビーは、“This is your time(さぁ、これからがあなたの時代よ!)”を出版した。
ここでルビーは、彼女の経験、公民権運動が盛んだった1960年代のこと、そして、現在の人種差別に対する抗議運動について書いている。
この本は、2020年5月に、黒人男性のジョージ・フロイド氏が、警官によって殺害された後に、書かれたものだ。
彼女は、ミスター・フロイド氏のをきっかけに始まった、警察官の暴力と人種間の不平等に対する抗議運動は、公民権運動における大きな進展だと述べている。
この抗議をする人々は、異なる人種、異なる国民だ。
彼らは皆、このような社会的不安を解消し、この国に安全を保証させ、国を前進させるために立ち上がった。
彼らの多くが、人種間の違いは、過去のものになると信じて戦っている。
なぜなら、過去に何が起こったかを理解する若者たちは、我々が現在暮らしている今の状態よりも、もっと素晴らしい社会で暮らしたいと思っているからだ。
そんな若者たちに、ルビーは希望を感じている。
「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の子供たちが、肌の色ではなく、人格そのものによって評価される国で暮らすという夢だ」
キング牧師の「私には夢がある」の演説だ。
ルビー・ブリッジズの活動が人々の結束をもたらし、子供たちの心から、人種差別の概念がなくなりますように!
そして、キング牧師の夢が叶う日が、この国に一日も早く訪れますように!<了>
るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。