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「…Oh…Sh*t……」 

 パソコンの画面を見ていたダンナがついぶやいた。 

 2022年2月1日、シカゴのブルーズマン、ブルーズの巨匠のひとり、ジミー・ジョンソン(Jimmy Johnson)が93歳で亡くなった。 

 寂しいなあ・・・。 

 去年の暮れに、心筋梗塞で倒れて入院したことは聞いていた。だから突然というわけではなかった。けれども、ジミーをよく知るダンナにとっては、やはり信じ難いことだったに違いない。 

 ダンナがジミーのバンドに入ったのは、1990年代後半だ。声がかかったとき、彼は大喜びで仕事を引き受けた。彼はジミーのファンキーなブルーズが大好きなのだ。 

 
「おれらの世代は、60年代、70年代のR&Bを聞いて育ってるやん。ソウルやで。毎日毎日、3コードのブルーズばっかり弾きたいと思う?」 

 シカゴのノースサイドにあるクラブの経営者は白人で、そのターゲットは白人と観光客だ。シカゴブルーズを聞きに来る客のために、ブルーズを演奏するのは当然。とはいえ、ダンナ世代になってくると、それ以外の曲も演奏したい。サウスサイドへ行けば、R&Bやソウルも演奏できるけれど、客は貧乏な地元の黒人だけで、とても生活できるほどは稼げない。生きていくためには致し方ないのである。 
 

RURUアイコン

るるゆみこ

「でも、シットインとか、オープニングでボビー・コールドウェルとか、レゲエとか歌ってたやん」



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ダーリン

「フルステージやったら文句言われたやろな。でも、誰もおれのソウルを奪うことはできへん!」



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るるゆみこ

「確かに。誰もなにも言わんかったんや~」



Dannaアイコン

ダーリン

「おれは奴隷ちゃう。おれは歌いたい曲を歌う。ブルーズもファンキーにアレンジしてから演奏してたやろ」






「それでも、カルロス・ジョンソンジミーは、あの時代からファンキーやってん。だからジミーから声がかかったときは、めちゃめちゃ嬉しかったわ~」 

  最初の仕事は一週間後、カナダへのツアーだった。彼は毎日毎日、明けても暮れても、ひたすら練習をした。 

 ツアー当日、ジミーは彼にソロをまわした。 

「練習ってすごいで~。弾き始めたら、フレーズがどんどん出てくるねん。観客もステージも全部ふっとんで、自分の音の世界だけになったのは、あれがはじめてやったわ。気がついたら、5分以上弾き続けててん」 

 弾き終わると、会場に大歓声が起こり、観客は大喜び・・・しかし、バンドのギターリストとドラマーは、気に入らなかったらしい。モータウンの世界、ジェラシーだ! 

 彼らより若く、スラリと背が高いダンナは、女の子からもよく声をかけられた。さらにジミーは、オープニングもダンナに任すようになった。 

「おれの方が歌が上手かったからちゃうかな?」 

 とはいうものの、彼らのジェラシーは膨らむ一方だった。 

  そんなある日、ダンナの存在に耐えられなくなったギターリストが、ジミーに詰め寄った。 

ジミー!おれはこいつと一緒にはできへん!この男がおるなら、おれはやめる!おれかこいつか、どっちか選べ!」 

「あ、そうなん?じゃ、おつかれさん」 

「・・・え?・・・」 

「うん、おつかれさん」 

 その会話を横で聞いていたダンナは、心の中でガッツポーズをした。 


「相手はジミーやで。情けはないよ~。 悔しかったと思うで。ジミーほど仕事のしやすい人はおらへんもん。ごちゃごちゃ面倒くさいこと言わへんし、金払いもええし」 


 ライブが終了し、メンバーが機材を片付け終わる頃、えんじ色のカーディガンをはおったジミーが、ステージの前に歩み寄る。手には、店から受け取った日当、キャッシュが握られている。そして、メンバー全員が見ている前で、お金を数えて手渡していく。その姿は、印象的だったのか、私の記憶にも鮮明に残っている。 

 さて、そのギターリストがクビになり、チコ・バンクスがメンバーに加わった。 



ジミーチコが入って嬉しかったと思うで」 

 シカゴのブルーズシーンは、R&Bを聞いて育った、チコやダンナたち中堅世代に移り変わる頃だった。まさに、これからのシカゴ・ブルーズを引っ張っていく、旬の若手がバンドにそろった!!ファンキー度もさらにアップだ!!! 

  はじめてこのバンドの音を聞いたときのことは、今でも忘れられない。クラブの前を歩いていて、中から聞こえてきた音に魅せられて、入るつもりもなかったのに、思わず店に飛び込んだ。リズム、グルーヴ、サウンド、そのすべてがファンキーで、飛び上がって叫びたくなるほど嬉しかった。 

 ジミー・ジョンソン インタヴュー 

 

 さて、そのジミーたちが演奏していたクラブが、ホルステッドストリートにある、「B.L.U.E.S.」だ。ジミーのバンドは、月に一度の週末、ジミーのお誕生日(11月25日)がある週末、そして12月31日に出演していた。毎回満員で、お誕生日と年末は予約をしなければ入れないほどだった。 

  1979年にオープンしたB.L.U.E.S.はこじんまりした店で、ステージがものすごく狭い。体格のよいミュージシャンたちと、ドラムやアンプなどの機材がのると、いっぱいいっぱいだ。キーボードはステージの下にセッティングされる。 

 お手洗いはステージの後ろにあり、演奏しているバンドの横を、恐縮しながら通って行く。しかし休憩中は、お手洗いの手前のブースで休んでいるミュージシャンと話すチャンスがある。私がチコとはじめて話をしたのも、この店の、このブースだった。 

  ブルーズ好きにはたまらない店だけれど、ダンナたちミュージシャンにとっては、学びの場、ミュージシャンたちと知り合う貴重なコミュニティだった。 

 筋向かいのキングストン・マインズに出演中のミュージシャンが休憩中にのぞきに来る。仕事が休みのミュージシャンや、仕事を終えたミュージシャンも遊びに来る。そして、その日のバンドにシットイン(飛び入り参加)する。 

 これまで演奏したことのないミュージシャンとセッションをする、大先輩のミュージシャンの前で演奏ができるチャンスなのだ。その中にはオーティス・ラッシュ(Otis Rush) 、オーティス・クレイ(Otis Clay)、サン・シールズ(Son Seals)、エディ・ショウ(Eddie Shaw)、マジック・スリム(Magic Slim)、ジェームズ・コットン(James Cotton)などなど、レジェンドと呼ばれる人もたくさんいた。 

  B.L.U.E.S.では、8月最後の日曜日に、恒例のバーベキューパーティが開催される。店のバックヤードで、マネージャーのレイ特製、巨大ハンバーガーが振る舞われる。ミュージシャンやその家族はハンバーガーを頬張りながら、彼らの友情と、シカゴブルーズの伝統を祝うのだ。 

  チコ・バンクスは生前、毎日のように、この店に遊びに来て、ブランデーを飲んでいた。 

 2008年12月に亡くなった後もしばらくは、この世を去らずにB.L.U.E.S. に残り、誰かがチコのオリジナルを弾いたら、電源を落とすなどのいたずらをしていた。 

  ダンナがシカゴを経つ前、最後に顔を出したのもこの店だ。 

  2020年から、新しいオーナーを探して、売りに出されていたB.L.U.E.S.は、コロナが始まってから、ずっと閉まっている。再開の目処は立たず、このまま閉店する可能性が高いと聞いている。 

 観客にフォーカスした商業的な店もあるけれど、ここB.L.U.E.S.は、店、ミュージシャン、そして観客との距離の近い店だった。多くのミュージシャンが育ち、シカゴブルーズの歴史を知るこの店が、なくなってしまうのはとても残念だ。私にとっても想い出の多いクラブなので、とても寂しい。 

 もう一度、この店で、私がはじめて出会ったメンバーで、ジミー・ジョンソンのステージを見てみたかった。 

  ジミーが亡くなった5日後、2月6日のことだった。FBを開くと、弟のシル・ジョンソン(Syl Johnson)が亡くなったというニュースが目に飛び込んできた。85歳だった。 

 

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るるゆみこ

「うわっ・・・」



Dannaアイコン

ダーリン

「なに?」



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るるゆみこ

「・・・シルが亡くなった・・・」



Dannaアイコン

ダーリン

「・・・えっ!・・・うわっ・・・ホンマや・・・ジミーが亡くなったとこやのに・・・」



 

   どんよりする二人。 

   ダンナはとも何度かプレイしている。 

「若い頃はジミーも意地悪やったけど、シルはもっと意地悪やったで~」 

 
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   ダンナはよく話していた。けれども、彼はその「意地悪」が「怒り」からくることを知っている。私自身もダンナの怒りを意地悪と取り違えたことがある。 

「俺ら黒人は、この国の人種差別に怒ってるやん。でも、俺らより上の世代は今どころじゃないで。俺には想像もできへんわ」 

 住む場所があり、両親がいて、食卓に毎日の食事が並び、毎朝学校へ行く。そんなシンプルな生活すら、彼らは肌の色が違うという理由だけで得られなかった。この国は、法を駆使して黒人の成功を阻み続けた。現在も、黒人たちは不平等と戦っている。けれども、ジミーシルの時代と比べることはできない。彼らが子供の頃は、リンチにあう可能性も常にあったはずだ。 

 シルは二度も母親に捨てられた。親に裏切られたら、誰を信じたらいいのだろう?誰も信用できない彼は、前に進むことに躊躇した。シルには素晴らしい才能があったにも関わらず、チャンスをつかむことができなかった。悔しくて、腹立たしくて当然なのだ。 

レコード会社の歴史あれこれ~シル・ジョンソン、アル・グリーン~ 

 
 ダンナは、そんなシルの人生も理解できるのだろう。 

「なんでシルジミーについていったんやろ・・・」 

 寂しそうにつぶやいた。 

  一緒に活動することは少なかった二人だけれど、2002年に「Two Johnsons Are Better Than One」というアルバムをリリースした。ジミーのファンキーなブルーズと、シルのブルージーなソウルのコラボレーションだ。タイトル曲はトップに入っている。どうしようもなくカッコいい。 


 ジミーのバンドでギターを弾いていたリコ・マクファーランが追悼の言葉を残していた。 

「私はお二人から多くのことを学びました。もっと素晴らしいミュージシャンになりたいと思い、成長していくことができました。我々にできることは、この世界でずっとプレイし続けた、あなた方のレガシーを引き継ぐことでしょう。そして、次の世代にそれを伝えることを約束します」 

  きっと、シカゴで彼らと時間を共にしたブルーズマンたちはみんな、リコと同じ気持ちなんだろうな。 

  ジミー・ジョンソンシル・ジョンソンのご冥福をお祈りします。 

 彼らのサウンドが、魂が、新しい世代のミュージシャンによって、ずっとずっと引き継がれますように!そして彼らブルーズマンに愛されたB.L.U.E.S. が、いつまでも人々の心の中に残りますように! 


るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ
引っ越し、そして結婚へ。

http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/