無題174


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ダーリン

「Up Town Saturday Night(アップタウン・サタデー・ナイト)にする?あ~、Let's Do it Again(レッツ・ドゥ・イット・アゲイン)も、もう一回観たい気がするな~・・・」



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るるゆみこ

「ん~、昨日観たしな~。」

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ダーリン

「そうやな~・・・やっぱりUp Town Saturday Nightにしよ」



 

 

 

 「Up Town Saturday Night(アップタウン・サタデー・ナイト)」
 「Let's Do it Again(レッツ・ドゥ・イット・アゲイン)」
 「A Piece of the Action(ア・ピース・オヴ・ザ・アクション)」


 この3本の映画はシドニー・ポアティエビル・コスビーが共演するコメディだ。

我々のこの会話は、約一ヶ月間、ほぼ毎日続く。同じ場面で笑い、同じ場面で盛り上がる。 

 

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ダーリン

「おれのニックネームのシルキー・スリムは、この映画のカルヴィン・ロックハートからきてん」



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るるゆみこ

「シルクのスーツばっかり着てた時代や!」

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ダーリン

「そうそう、チャーリー・ラヴ(お友だちのブルーズ・マン)がつけてくれてん」



 と、こちらも毎度、同じ会話だ。ダンナと二人なら、ボケても楽しいに違いない。 

 

出演者は、ハリー・ベラォンテ、ジェイムズ・ジョーンズ、カルヴィン・ロックハート、リチャード・プライアー、ジミー・ウォーカーなど、そのラインナップはたまらない。ブラックコメディに興味があるなら、絶対に観るべき作品ばかりだ。 

制作監督は黒人たちのレジェンド、シドニー・ポアティエである。 

 

 

1月6日、俳優でディレクターのシドニー・ポアティエが亡くなった。彼は黒人のために、ハリウッドの扉を開いた先駆者のひとりだった。 

 

 こんな話を聞いたことがある。 

 黒人の役者に、 

「共演したい人は誰ですか?」 

と質問すると、ほぼ全員が、 

シドニー・ポアティエ」 

と答えるそうだ。 

 

1950年代、1960年代、白人社会のハリウッドで、メインキャラクターを演じる、堂々とした彼の姿は、黒人たちに自信と誇り、そして希望と喜びをもたらした。 

その姿は、まさに彼自身だった。ポアティエは、他人に対して偉ぶることもなければ、怯むことも、臆することもない。常に、眩しすぎるほどの威厳と優しさに満ちていた。 

 


ポアティエが育ったのは、バハマ諸島のひとつ、キャットアイランドだ。7人兄弟の末っ子で、両親はトマト農家を営んでいた。 

生活は貧しく、電気、ガスはもちろん、水道すらなかった。鏡はもちろん、ガラスのコップや食器もなかったので、彼が自分自身の姿を目にするのは、洗濯で池へ行ったときだけだ。その衣類も、母親のエヴァリンがジャガイモの袋をリメイクしたのものだった。 

 

「清潔であれば、なにも恥じることはない!」 


と、彼女は胸を張って言う。 

 

10歳のとき、彼らはバハマの首都、ナッソーへ引っ越しをする。フロリダ州がトマトの輸入を禁止したためだ。そこではじめて自動車を目にした。 

ナッソーは都会だった。けれども、トマト栽培しかできない両親にできることは限られている。レジーは、タクシーの運転手をした。リウマチが悪化してからは、毎晩バーへ行き、フロリダで暮らす長男から送られてくるタバコを、一本一本売って歩いた。 

 

 母親は、大きめの石を広い集め、その石をハンマーで砕いた。
 家の前のアーモンドの木の下で、大きなつばの帽子をかぶり、朝から晩まで、毎日毎日、ハンマーで石が粉になるまで砕き続けた。三ヶ月ほどして、粉の山が屋根と同じくらいの高さになると、男がトラックで買い取りに来る。1トンが6ドルだった。 

 

両親は貧しく、なにも持っていなかった。しかし、彼らが愚痴をこぼしたことは一度もない。
 レジーは父親として、エヴァリンは母親として、それぞれの人生における自分の役割を理解していた。 
 そして、その役割に、責任と誇りを持っていた。 

 

 12歳になると、シドニーは学校を中途退学し、フロリダへ移住する。仕事をするためだ。ところが、そこにはバハマにはないルールがあった。 

 

彼が配達の仕事で白人宅を訪れたときのことだ。玄関に現れた女性は、品物を差し出した彼に言った。

「裏口にまわりなさい!ここは、あなたが立っているべき場所じゃないのよ!」 

バタン!きつい音をたてて、目の前でドアが閉まった。

彼は品物をそっと地面に置き、その場を立ち去った。

KKK(クー・クラックス・クラン:白人至上主義団体)が彼を探していたことを知るのは、夜になって彼が帰宅した後のことだ。
 仕事終わりに映画を観ていなかったら、この日、リンチにあっていたはずだ。 

 

また、白人居住地にある工場へ行ったときのことだ。シドニーが道を歩いていると、パトカーが止まった。 

「こんな場所で何をしてるんや」 

「そこの工場に行ってました」 

と言うと、二人の警官が、彼を撃つかどうかの相談をし始めた。運転席の窓を見ると、銃口が彼に向かっていた。 

「お前のおるべき場所にとっとと戻れ!もしもこちらを振り返ったら、おれたちはおまえを撃つ」 

「Yes, Sir・・・」 

黒人居住地までは50ブロックだ。振り向きたい衝動、走り出したい衝動を抑えながら、彼は歩き続けた。パトカーは、彼がそのコーナーを曲がるまで、彼の背後にピタリとついてきた。 

 

バハマでは、人種、階級が明確にわかれていた。権力者はもちろん白人だ。けれども、黒人コミュニティは互いにリスペクトし合い、白人を恐れる者もいなかった。
 シドニーにとって肌の色の違いは、空が青く、雲が白いことと同じだった。人間は自然の一部であり、彼はカラードではなく、ひとりの男だった。 

ところが、フロリダは違った。フロリダは彼が何者であるかを教えようとした。そして、フロリダのルールを押し付けようとした。 

しかし誇り高い両親に育てられた彼は、すでに自分が何者かを知っていた。17歳の彼には、自分なりのルールがあった。 

フロリダに、彼がいるべき場所はない。シドニーは全財産の3ドルを握りしめてバス停へ向かった。そして3ドルで行ける一番遠い場所、ニューヨークを選んだ。ニューヨークといえば、ハーレムだ! 

 

しかし、ハーレムに来たものの、彼には学歴がない。できることもなければ、何をしたいのかすらわからない。とりあえず、皿洗いの仕事をしながら、有料のトイレや、ビルの屋上で野宿をした。 

ある日、新聞の求人欄を見ていた彼の目に、”アクター募集”という字が飛び込んできた。アメリカン・ニグロシアターの広告だった。 

「皿洗いができるなら、アクターもできるやろ・・・」 

という安易な気持ちでオーディションを受けに行った。けれども、現実は甘くない。教育を受けていない彼は、渡された台本を、まともに読むことすらできなかった。 

「他人の時間を無駄にするなっ!皿洗いの仕事でもしとけっ!」 

と、大男にベルトと襟をつかまれ、外に放り出された。 

 

この瞬間、彼に目標ができた。

「おれは、あの大男を見返す!ディッシュウォッシャー以上の仕事ができることを、あの男に証明する!!!」 

 

 この日から彼の猛特訓が始まった。
 カリビアン訛りを矯正するために、ラジオのパーソナリティ、ノーマン・ブロークンシャイアが話す言葉をそのまま真似て、何度も繰り返し発音した。
 シドニの完璧な発声と抑揚のある独特なリズムは、このとき完成した。雑誌を購入し、単語やフレーズを覚えた。
 無償で用務員の仕事をするという条件で、アメリカン・ニグロシアターに入り込み、役者の勉強をした。 

 

 ある日、仕事を終えた後、テーブルの上に新聞を広げて、ながめていた彼に、ユダヤ人の同僚が話しかけてきた。 

「なんか新しい事件でもあった?」 

「私は教育を受けてないので、新しい事件があったかどうかはわかりません」 

「よかったら、一緒に読んでみる?」 

 この日から毎日、この同僚は仕事が終わると、新聞を読んでくれた。シドニーはこの同僚のことを、後に恩人と呼んでいる。 

 

 チャンスは半年後にやって来た。ハリー・ベラフォンテに急用が生じ、代役が必要になったのだ。毎日ステージを観ていたシドニーは、台詞をすべて覚えていた。 

さらに、代役でステージに立った彼の芝居を見ていたブロードウェイ・プロデューサーから、仕事の依頼が入る。役者としての初仕事だ! 

しかし、結果は散々だった。多くの観客を前にした彼は、緊張のため、台詞の順番を忘れてしまった。 

その日の夜、アパートへ戻る道を歩きながら、自分には才能がなかったんだ・・・役者の道はあきらめよう・・・シドニーは思った。 

ところが観客は違った。彼のその姿は、なぜか大ウケした。 

「あの男の子は誰???」 

舞台がギリシャ・コメディだったからかもしれない。翌日にはいくつかの新聞が、彼のことを記事にした。19歳のときだった。 

 

舞台で実力をつけた彼が、スクリーンに登場するのは、それから数年後だ。 

1950年、「No Way Out(ノー・ウェイ・アウト)」では、ドクター役を手に入れる。ハリウッドで、黒人が召し使いや犯罪者以外の役を演じることは、過去になかったことだ。 

 

1950年から1960年代、彼は30本近い映画に出演した。しかもそのほとんどが、主役、もしくはそれに続く重要な役柄だった。公民権運動が盛んになり、ハリウッドにもその影響が起こり始めていた時期だった。 

 

しかし、どんな役でも引き受けたわけではない。 

 

ちょうど、二人目の子供が生まれる頃だった。出産のために750ドルが必要だった彼に、映画の話が舞い込んだ。 

それは自分の犯罪を目撃した少女の口を塞ぐために、殺害するという役柄だった。 

「私の父、レジーは、自分の過ちを隠すために、子供を殺すような人間ではない。そして私自身も、父親として、子供を攻撃したり、殺すことはできない」 

彼はその仕事を断り、家具を担保に出産資金を賄った。 

シドニーにとって、仕事は自分自身であり、両親へのリスペクトを反映するものだった。  

 

また、撮影の前にオフィスに呼び出され、スタジオ弁護士に”ポール・ロブスンとは交流しません”という宣誓書にサインをしろと言われたこともあった。ポール・ロブスンは、俳優、オペラ歌手で、南部のリンチを厳しく批判する公民権活動家だった。シドニーとは互いの家を往き来する仲で、彼は、勇敢で、高潔なポールを心から尊敬していた。 

 「そんな不快な宣誓書にサインをするくらいなら、私は皿洗いをする。家族を養うためならどんなことでもする。しかし、私のソウルを奪うことは、誰にもできない!」 

 そのことでFBIから目をつけられ、脅されたこともあった。けれども、シドニーの心は、黒人のために尽力する人々と、常に寄り添っていた。 

 

「Lilies Of The Field (邦題:野のユリ)」は、1963年に公開された映画だ。
 旅をしながら自由に暮らしているホーマー(シドニー・ポアティエ)。彼はアリゾナ州の僻地で、東ヨーロッパから亡命してきた白人修道女たちに出会う。そして、彼女たちのためにチャーチを建てる羽目になる、というコメディだ。ホーマーは労働に対する支払いを求めるけれど、マリア院長は、彼との出会いは神のお導きだと考えた。 

彼は英語が話せない修道女たちに英語を教える。建築現場で稼いだ金で、みんなの食料を買ってくる。しかし、それらの感謝は、神にのみ捧げられる。途中、ホーマーがすべてを放り出して、逃げ出す場面もあるけれど、最後は町の人々と一緒になって、教会を建設する。 

このストーリーは信仰と履行、助け合いのハーモニーなのだ。 

 

私の好きな場面がある。 

ホーマーのことを、 

「ヘイ!ボーイ!」 

と呼んだ建築会社の白人社長に対し、ホーマーが、 

「ヘイ!ボーイ!」 

と呼び返すのだ。 

その姿は、白人社長も怯むほど、眩しく、堂々としていた。シドニー・ポアティエだからこそ、彼にしかできないシーンなのだ。 

 

実はこの映画の制作費は24万ドルしかなかった。しかも担保は、ディレクター、ラルフ・ネルソの自宅だ。担保となった自宅で1週間のリハーサルを終え、全員がアリゾナへ飛び、モーテルに宿泊しながら13日で撮影を終えた。スクリーンには、そんな彼らの結託力と仲の良さが溢れだしている。 

そして彼はこの作品で、黒人初のアカデミー主演男優賞を受賞した。 

 

1965年の「A Patch Of Blue(邦題:いつか見た青い空)」は私の大好きな映画だ。 

18歳の白人少女、セリーナは盲目だ。
 母親のロザーンは、娘を家に閉じ込め、 学校にも行かせなかった。セリーナの役割は、ビーズを糸に通す内職と家事のみ。
 そんな彼女がある日、公園でゴードン(シドニー)と友達になる。
 オフィスで仕事をするゴードンは、教養のある、中流階級の黒人だ。
 何も知らない彼女にゴードンは、横断歩道の渡り方、自宅のアパートから公園までの歩き方、電話のかけ方を教える。一緒にグロッサリーショッピングへ行き、デリでランチを買う。
 そして、セリーナに暴力を振るい、売春させようとする母親から守るために、盲学校へ入学させる。

 


 ロザーンは人種差別主義者なので、セリーナがゴードンと一緒にいる姿を見て激怒した。
 恋をしたセリーナには肌の色など関係がない、ゴードンにキスをする。 

歴史上初の、白人と黒人のキスシーンだった。 

この映画のテーマは、人種や生活レベルなど関係なく、困っている人に手を差し伸べる、「人間愛」だ。人間味あふれるゴードン役はシドニー・ポアティエでなければならないし、純真なセリーナ役は、エリザベス・ハートンが大正解、という映画である。 

 

  1967年の「Guess Who's Coming To Dinner(邦題:招かざる客)」では、世界的に名の知れたドクター役のジョンを演じている。 

裕福に育った、23歳の白人、ジョアンナが休暇のハワイで出会った37歳のジョンを伴って、実家へ戻ってくる。
 その日の夜にはニューヨークへ経ち、翌日、スイスで行われる学会へ向かう。そこで式を挙げる予定だ。ジョアンナの両親はリベラルであろうとするけれど、突然の出来事に頭と心がうまく連動しない。
 そうこうしているうちに、ジョンの両親も、その日のディナーにやってくる。彼らは、ジョアンナが白人だとは思っていない。 

 複雑な思いはあっても、母親たちは子供たちを信じ、彼らの幸せを願う。しかし、ジョアンナの父親は、黒人との結婚により、娘が多くの問題を乗り越えなければならないことを心配する。ジョンの父親は、苦労して育てた息子が、白人と結婚することを受け入れられない。 

 この映画で、ジョンが父親に対し、 

「あなたは自分のことを黒人の男と考えるけれど、私は自分自身をひとりの男だと思っている!」 

 と訴えるシーンがある。すべての黒人男性の心の叫びだった。 

 

 私のお気に入りは、サンドウィッチをもてなされたジョンが、パンを開いて、中身を何度も何度も確認している場面だ。他人が作ったサンドウィッチをまったく信用しない、実に黒人らしい行動だった。 



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 もうひとつは、クリスティーナジョアンナの母)が経営するアートギャラリーを手伝うヒラリーが、彼らの結婚に口出ししようとして、クリスティーナにクビにされる場面。クリスティーナ役のキャサリン・ホートンが大好きになるシーン。 



この映画がリリースされたとき、南部ではまだ、異人種間の結婚が認められていなかった。 

 

同じく1967年、「In The Head Of Night(放題:夜の大捜査線)」では、優秀な黒人刑事、ティップス役を演じている。フィラデルフィア市警殺人課のティップスが、人種差別の激しいミシシッピ州で、殺人事件解決にあたるというストーリー。 

ティップスが犯人のインディコットに平手打ちされる、という場面で、シドニーは監督に台本の変更を願い出た。 

「インディコットが平手打ちをしたら、間髪おかずに、ティップスがバックスラップ(手の甲で打つ)をするように変えてください」 


監督は、彼のそのアイデアを採用した。 



インディコットは黒人から平手打ちをされた屈辱で涙を浮かべている。自分は殺人を犯しているにも関わらず、である。この時代の南部の白人の多くは、彼と同じ感覚だったに違いない。 

 

 これらの映画は、公民権運動が盛んな時代だったから制作できたのかもしれない。けれども裏を返せば、まだまだ人種差別が激しい時代だったとも言える。白人だけのキャストの中で、彼はただひとりの黒人だった。 

 1963年、彼がアカデミー主演男優賞を受賞したときの候補者は、彼以外はすべて白人だった。 



オプラ・ウィンフリーは、この映像を見て、 

「彼にできるのなら、私にもできるはず!」 

と希望を持った。彼女だけではなかったはずだ。 

 

シドニー・ポアティエモーガン・フリーマン、デンゼル・ワシントン、ウィズリー・スナイプス、サミュエル・ジャクソン、現在の俳優たちが担っている役を、たったひとりでしてきた。彼の存在があってこその私たちなんだ」

 と話すのは、ローレンス・フィッシュバーンだ。 

 

1970年代、1980年代はディレクターとしても活躍する。1990年代に入ると、テレビドラマでの活躍が中心となる。 

1991年、「Separate but Equal(分離すれでも平等)」では、黒人初の最高裁判所判事、サーグッド・マーシャルを、1997年、「Mandela And de Clark(マンデラとデクラーク)」では、ネルソン・マンデラを演じた。
 

特に、「マンデラとデクラーク」では、シドニーが、マンデラ本人に思えてくる。彼の人間性が、平和と協調のための不屈の精神を持つマンデラのそれと、重なりあったドラマだった。 

 

2002年、素晴らしい功績に対し、アカデミー名誉賞が授与された。 

「私がハリウッドに入ったとき、そこには私たち黒人のための指標も、道筋も、なにもありませんでした。現在、このような道が開けることなど想像もできませんでした。 

 

私より前に、このフィルムの世界で尽力された方々の存在がなければ、今日の、この忘れがたい日は迎えられませんでした。そして彼らがいなければ、現在活躍する若い方々が、これまでの伝統をさらに豊かにすることはできなかったかもしれない。 

 

私は、困難な時代を通り抜けてきた、すべてのアフリカン・アメリカンの俳優、女優の方々と分かち合うために、今日のこの賞を受賞します」 

 

彼は上の世代の人々から受け取ったバトンに責任を持ち、黒人がハリウッドで活躍できる場を切り開いていった。そして、そのバトンを次の若い世代につないだ。 

彼のスピーチは、黒人だけでなく、すべての人々の心に響くものがある。その映像を見ていると、胸がいっぱいになるのは、私だけではないだろう。 

 

誠実で、スマートで、強く、人間味あふれる黒人を演じることで、彼にしかできない方法で、ハリウッドに人種間のリスペクトと協調をもたらした。そしてフィルムという媒体を用いて、同胞に夢と希望を与えた。 

 

シドニー・ポアティエの努力と功績が、彼の渡したバトンが途切れることなく、これからのハリウッドで引き継がれていきますように! 

 

るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。

http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/