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 バーニー・マックはハイスクールを卒業した直後、ガールフレンドのロンダの妊娠がわかった。
 19歳でもやるべきことを知っていた。おばあちゃんから正しい生き方を習っていたからだ。
 
 ロンダと結婚し、家族を養う。まずそのことにフォーカスする。
 
 ジェネラルモーターズ社の用務員、引越業者のドライバー、レストランのマネージャーなど、いくつもの仕事をこなした。
 コミュニティセンターでアスレチックコーチとしても働いた。バーニーは子供と一緒に遊ぶことが好きだった。生まれつきの障害やドラッグの誘惑など複雑な環境で育った、子供たちを接した経験が後に生かされる。

 とはいえ、その間もビッグドリームを忘れたことは一度もなかった。 

 週末になるとコメディクラブへ行き、ステージで自分のジョークを試した。ところが、まったく笑いは起こらない。ステージにすら上げてもらえない日もあった。  

 1980年代、コメディクラブのパフォーマーも観客も、そのほとんどが白人だった。 

 どうすれば笑いがとれるのか・・・?

  バーニーが奮闘していたちょうどその頃、大好きなおばあちゃんが亡くなった。糖尿病による足の切断手術の最中のことだ。その翌年、おじいちゃんも亡くなった。 

 ママ、デロ、おばあちゃん、おじいちゃん、大好きな家族を次々と失い、悲しみと寂しさで心が破裂しそうになった。

 黒人たちの葬式はバンド演奏が入ったり、にぎやかな形式が多い。バーニーはお葬式で皆を笑わせた。 

  このとき天啓がひらめく。自分自身の笑いのスタイルは、白人を客層にした正統派コメディではないと気付く。自分の人生で起きた悲しいこと、苦しいこと、理不尽なこと、そのすべてをネタにする。

 笑いのエボリーションだ!! 

 選ばれた場所は、黒人が経営するジャズクラブ、「Cotton Club(コットンクラブ)」。毎週月曜日の夜、コットンクラブではアマチュア・ナイトが開催される。観客はもちろん黒人だ。 

 バーニーは、笑いの壁を破った。 

 一カ月もしないうちに、彼は、そのクラブの人気者になっていた。 

 32歳のとき、コメディ一本で生活することを決意する。 

 まもなく全国的に知られるコメディ・コンテストで優勝。人生ではじめて手中にした3千ドルの賞金は、すべて娘の大学費用のために貯金した。 

 3年後、HBOテレビでレギュラー出演の座をつかむ。この「Def Comedy Jam(デフ・コメディ・ジャム)」という番組は、過去に何人もの人気コメディアンを世に送り出していた。

 ステージに立つマックは大きな目をギラギラと光らせ、まず豊かな表情で観客をひきつける。大きなやさしい手も、見る人の心に語りかけてくるかのように動く。そこから畳みかけるように、恐れを知らない辛辣で快活なジョークを次々と披露した。

  やがて、デイモン・ウェインの「Mo’ Money(モー・マニー)」、やアイス・キューブの「Friday(フライデー)」など、ブラックコメディ映画にも出演する。

 さらに、HBOテレビで「Midnight Mac(ミッドナイト・マック)」という番組を企画し、プロデューサー兼ホストを務めた。コメディ、ダンス、音楽が一度に楽しめる総合エンターテイメントだ。10人のダンサー、ハウスバンド、そしてゲストミュージシャンはすべて黒人だ。
 この番組を観れば、エンターテイメントにおける、彼ら黒人の素晴らしい才能に改めて気付かされる。ゲストはシーラ・E、チャカ・カーン、ブライアン・マックナイトなどなど、超豪華メンバーばかりだ。 



 2000年、スパイク・リー監督の、「The Original Kings Of Comedy(ザ・オリジナル・キングス・オヴ・コメディ)」というドキュメンタリー映画で、バーニーは不動のポジションを獲得する。この映画は、スティーヴ・ハーヴィをはじめとする、4人の人気黒人コメディアンのツアー現場を撮影したものだ。 


 彼の名前は最後にクレジットされ、ポスターでは皆の後ろ側に立っている。けれども、バーニー・マックが一番面白いと思っている人は、私だけではなかったはずだ。

 とはいえ、バーニーの人気は黒人中心、白人の間では、彼の名前すら知られていなかった。 

 38歳のバーニー・マックは最も有名で、そして最も無名のコメディアンだった。 


 バーニーが全国的に知られるようになったのは、2001年に公開された「Ocean’s 11(オーシャンズ11)」でフランク・キャットン役を演じたときだ。ブラッド・ピッドらと共演を果たす。
 「Charlie’s Angels(チャーリーズ・エンジェルズ)」や「Bad Santa(バッド・サンタ)」に出演し、「Mr.3000」では主役を務めた。毎年数本の映画に出演するようになった。
 「トランスフォーマー(Transformers)」(2007年)やディズニー映画の「オールド・ドッグス(Old Dogs)」では、ロビン・ウィリアムズ(Robin Williams)やジョン・トラヴォルタ(John Travolta)と共に主役級を演じている。

 自らプロデュースした連続ホーム・コメディドラマ、「The Bernie Mac Show(ザ・バーニー・マック・ショウ)」が始まったのも2001年だ。 

 このドラマは、主演のバーニー(役名も同じ)が、姉のやんちゃな3人の子供を預かり、妻のワンダ(ケリータ・スミス)と共に、子育てに奮闘する様子を描いている。 

 2歳のブリアナ、4歳のジョーダン、6歳のヴェネッサの3人が彼の家で暮らし始めるとき、バーニーはあの特徴ある目をぎょろつかせながら宣言する。

「この家の物はすべてオレのもんや。オレの物には絶対に触れるな。テレビにも、ビデオにも、DVD  にも、リモートにも触れたらあかん。なんやったら、この前を通るときは、目をつぶって通れ!」 

 

 ダンナが言いそうな台詞なだけに、私はおもしろくて仕方がない。 

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ダーリン

「おれら黒人は、他人に自分の物を触られたくないねん」



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るるゆみこ

「へー、じゃ、“Make yourself at home(自分の家やと思ってくつろいでね)”ていうフレーズはないんや」



Dannaアイコン

ダーリン

「当たり前や!おれの家や!子供の頃、友達が家に遊びに来たら、“そこに座っとけ!そこから動くな!おれのママの家をリスペクトしろ!”て言うて、どこも触らせへんかったで」



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るるゆみこ

「でも、私も触ったらあかんやん」

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ダーリン

「おれもお前の物は触らへんやろ」」

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るるゆみこ

「ん~・・・でも、掃除ができないんですけど・・・」



 黒人コミュニティでは、ありがちな台詞だ。もっとも、

「子供たちに対して、なんてひどいことをするの!!!虐待だわっ!」 

 と、思う人もいたようだ。 

 しかし、バーニーは引き下がらなかった。 

「ウソはつけない。おれは自分の思うこと、言いたいことを言う!」 

 というのも、このドラマのストーリーは、バーニーのスタンダップ・コメディのネタ、つまり、彼の家庭の中で起きた実話を元にしてできたものだ。 

 バーニーは実際に、16歳で出産した姪のトーニャと、その娘のモニークを預かった経験がある。

 ドラマの中で、バーニーに反抗するヴェネッサはトーニャを反映し、小さなブリアナはモニーク、そして、いたずら好きのジョーダンは、彼自身が子供だった頃を描いていた。子育て初心者のバーニーは、オロオロして滑稽な場面もあるけれど、おばあちゃんの厳しい子育ても垣間見ることができる。 

 彼は視聴者に向かって語りかける。 

「子供は利口で、ずる賢くて、嘘つきで、上手に泣いてみせるねん。奴らは12種類のパーソナリティを持ってるぞ。あいつらを信用したらあかん!!」 

 バーニーの辛辣な言葉に、視聴者は笑わずにはいられない。 

「すべての人を笑わせたい!」 

 彼が最も望んでいたことが、やっと実現した。40歳を過ぎていた。 
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   2002年、オプラ・ウィンフリー・ショーに、NBAのスター、チャールズ・バークリーとトークした際、「ブラックメール」ネタは大いにうけた




 2008年8月9日、バーニーはサルコイドーシス(全身の臓器に類上皮細胞肉芽腫が発生する難病)による肺炎で急遽した。広報兼マネージャーの発表だと、シカゴのノースウェスタン病院に入院したときはまだ自分の足で歩くほど元気だった。合併症で容態が急変した。享年50歳、早すぎる死だった。

 誰のことも信用しなかった彼は、稼いだすべての金をロンダ名義の口座に振り込んでいた。
 30年の結婚生活で、ツアー中も、ステージに立っていないときは、いつもロンダと電話をしていた。
 ときには喧嘩することもあった。ロンダが実家へ帰ることはあっても、彼がおばあちゃんの家に帰ることはなかった。家に入れてもらえなかったからだ。おばあちゃんは、嫌いな部分もすべてひっくるめて、パートナーのすべてを愛することを彼に教えた。 

 サウスサイドの暮らしに華やかさや明るさは一切ない。彼らの多くは貧乏で、不安で、理不尽な差別や裏切りに対する怒りや悲しみと戦いながら生きている。 

「笑いは苦悩から生まれるねん」 

 とダンナは言う。 

 暗澹とした黒人コミュニティにおいて、笑いは救いだ。笑いは苦しみを軽くする。笑っている間だけは、悲しいことを忘れることができる。 

 バーニーも多くの悲しみを知っている。

「これまでの人生で、俺にふりかかってきたすべてのことは、教訓として受けとめる。毎日は、そのすべての応用や。自分が他人にされてイヤなことは、他の人にもしたらあかん」 

 自らが受けた傷から学んだ、とても優しい人だったのだろう。 そして、ひとりの女性を愛し続けた。 

 黒人コミュニティに、世界中に、愛があふれて、互いに優しい気持ちで接することができる、そんな世の中になりますように! 



るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。

http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/