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ダンナアイコン

だんな

「お、アンジェラ・デイヴィスや!」

 

 ドキュメンタリー番組を観ていたダンナがつぶやいた。画面には、大きなアフロ姿の女性が映っていた。

ダンナアイコン

だんな

「黒人の髪の毛は軟らかくて、ナッピー(縮れ毛)やから、ちゃんと手入れせんかったら、毛先がプチプチ切れて、伸ばされへんねん。おれはビューティーサロンで毎日手入れして、肩まで伸ばしてたでー。若かったし、背も高いし、おしゃれやったし。シルクのスーツ着て歩いたら、モテモテやったわー」



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るるゆみこ

「あ~、わかる、わかる!」

 

 私がダンナに出会ったときは、若者の域は過ぎていた。
 髪もショートで、シルクのスーツも着ていなかった。
 それでも私は、見事にひと目惚れしたのである。
 若かりし頃の彼の周りには、私みたいな女がウヨウヨいたに違いない。


ダンナアイコン

だんな

「手入れがめんどうくさいから、ショートにして、ウィッグつけてる子も多いけど、アフロは黒人の誇りやで。みんな、ビューティーサロンへ行けーっ!」


 黒人として誇り高いダンナは、その自然な姿を受け入れず、金髪や、ストレートの黒髪のウィッグをつけているシスターたちを見ると、とりあえず文句を言う。 
 それとは逆に、アンジェラのようにナチュラルな姿の黒人女性を見ると大喜びする。  しかし、アンジェラ・デイヴィスは、ただのアフロのお姉さんではない。

  

ダンナアイコン

だんな

「彼女はブラザー、シスターのためにジェイルに入った女性やで。俺ら黒人で、彼女のことをリスペクトしてない奴はおらん!」

 

 アンジェラ・デイヴィスは、平等、自由、そして正義のために、1960年代から戦い続けている黒人女性なのだ。


アンジェラ・デービス


「・・・改革を成功させるためには、もっと多くの“アンジェラ・デイヴィス”が必要です」

 そうテレビ画面の中の男性が話していた。

 

 アンジェラ・デイヴィス1944年生まれ。アラバマ州のバーミンガムで誕生した。彼女のママは教師、パパはガソリンスタンドを経営していた。

 1950年代、ミドルクラスの彼らが暮らす地域は、「爆弾の丘」と呼ばれていた。KKKが、毎日のように黒人の家の前に爆弾を仕掛けていたからだ。
 1963年9月に起こった、16thストリート教会爆破事件は有名だ。このとき亡くなった4人の子供たちは、皆、彼女の知り合いだった。

 パパはKKKの攻撃から家族を守るために、常に銃を隠し持っていた。

 彼女のママは、NAACP(全国黒人地位向上協会)のメンバーだった。南部の黒人青年議会では、役員も務めていた。この組織は共産党の影響を強く受けている、

 このような環境で育ったアンジェラは、子供の頃から共産主義の考えに触れる機会に恵まれ、人種差別と改革に対する意識が備わっていた。

 

 成績優秀だったアンジェラは、ニューヨークの人種統合された高校へ進学する。
 そして、奨学金を得て、マサチューセッツ州のブランダイス大学で、フランクフルト学派の哲学者、ヘルベルト・マルクーゼに師事する。

 このとき彼女は、アカデミックな側面から、活動家として改革を起こせる可能性があることを知る。

 大学一年目、彼女はフランスやスイスを訪れた後、ヘルシンキへ立ち寄る。「反戦、平和、連帯」をスローガンとする、世界青年学生祭典に参加するためだ。
 しかし、この祭典に参加したことで、彼女はFBIから目を付けられるようになる。

 大学二年目、フランス語を専攻したアンジェラは、フランスへ留学し、学位を取得する。

 再びブランダイスへ戻り、哲学、マルクス主義を学ぶ。そして二年間、ドイツのフランクフルト大学へ留学する。この間、彼女はドイツ社会主義学生同盟の活動に参加した。

 修士号はドイツ帰国後に、UCLA(カリフォルニア大学)サンディエゴ校で取得、博士号は、東ベルリンのフンボルト大学で取得した。

 また、1965年に卒業したブランダイスで、彼女はフランス語の優等学生として、マグナ・クム・ラウデを受賞し、三代目のPhi Beta Kappa(ファイ・ベータ・カッパ:成績優秀な大学生の友愛会)のメンバーとして表彰されている。 

 

 彼女が改革を目指して、アカデミックに専念している頃、アメリカは変わり始めていた。

 彼女がニューヨークにいた頃、アラバマ州では、ローザ・パークスのバス・ボイコット事件が、アーカンソー州では学校内での人種統合に反対して、リトルロック高校事件が起こった。そして、これらの事件に対して、南部では公民権運動が盛んになっていた。

 16thストリート教会爆破事件の抗議運動は、1964年の公民権法制定につながっている。

 ドイツ留学中、アメリカではブラック・パンサー・パーティ(BPP)や、学生非暴力調整委員会(SCC)の活動が活発になった。SCCは反戦・反差別をスローガンとする、黒人学生主体の公民権運動組織だ。

 これら抗議運動、公民権活動が起こるたびに、彼女は

「私もこの革命の場所にいたい~!!!私も改革に参加したい~!!!」

 と強く強く思った。

 

 卒業後、アンジェラはアカデミック・フリーダムを目指すUCLA(カリフォルニア大学)に、助教授として迎えられる。教壇に立つ傍ら、彼女は学生たちの民主主義団体、BPP、共産党のミーティングにも積極的に参加した。

「自分で変えられないことを、これ以上受け入れることはできない。私は享受できないことを変えようとしているの」

 社会改革、刑務所制度改革、人種差別撤廃、フェミニズムを訴えるアンジェラは、革命のシンボル的存在となっていく。

 
 しかしその頃は、大統領がリチャード・クソンで、カリフォルニア州知事はロナルド・レーガンの時代だった。

 麻薬戦争を始めたニクソンの真のターゲットは、戦争反対者と黒人だ。カリフォルニア州では、ドラッグ保持の疑いで、黒人とヒッピーが次々と逮捕された。現在も続く、大量投獄の始まりだ。

 刑務所ビジネスは、州経済を潤す効果があり、また、囚人は低賃金の労働力として利用できる。さらに、黒人コミュニティから男性を奪うことで、コミュニティのパワーを刈り取ることができる。

 共産主義者、活動家、そしてこれらシステムを見抜くアンジェラは、政府にとって危険人物だった。

 

 そんなアンジェラの主な活動のひとつが、ソルダット・ブラザーズのサポートだった。

 ソルダット・ブラザーズは、カリフォルニア州のソルダット刑務所に収容された、ジョージ・ジャクソンを含む、3人の囚人だ。

 彼らの収容先は、極悪の環境で、人間の理論的思考を破壊すると言われていた。ジョージは、その状況を記録した手紙を友人に送り続けた。また、刑務所内でBPPに入団した彼は、機関紙に革命を呼び掛ける論文を寄稿した。

 1970年1月、彼らは、看守のジョンV・マイルズを殺害した罪を負わされる。

 そこでセレブリティ、作家、活動家が、彼らの弁護のために立ち上がった。アンジェラは、次第に中心人物となっていく。 

 同年8月7日、ジョージの弟で、17歳のジョナサンが、BPPメンバー4人と共に、マーリン地方裁判所を襲撃、裁判官、検察官、陪審員を人質にする。要求は人質と兄との交換だ。

 ジョナサンは警察との銃撃戦で死亡するけれど、現場検証で、犯罪に使用された拳銃の中に、アンジェラ・デイヴィス名義のものが発見される。警察はアンジェラを第一級殺人罪、誘拐罪、共謀罪で指名手配した。FBIは、アンジェラ10人の最重要指名手配犯のひとりに指定した。

 ラスベガス、シカゴ、マイアミ、NYと逃げ続けた彼女が逮捕されたのは、二カ月後の1013日だった。

 

 1971年1月5日、大きなアフロ姿でマーリン裁判所に現れたアンジェラは、傍聴席に向かって、ブラック・パワー・サリュートをした!




「私は裁判が始まる前に、この国の人々の前で、すべての罪において私が無実であることを宣言します!」

 彼女は誇りある黒人として、権力に対して、不正に対して立ち向かう姿勢を堂々と示した。

 

 そんなアンジェラの無実を信じ、彼女の釈放を求めて、世界が動いた!

 「Free Angela」活動のために、国内で200以上、国外で60以上もの団体が結成された。

 彼女の妹は、ロシア、チェコスロバキア、東ドイツ、ポーランド、イタリアで演説を行った。

 ジョン・レノンヨーコ・オノは、“Angela”という曲を作り、キャンペーンを開いた。



 “Sweet Black Angel”は、ローリングストーンズの数少ないポリティカルソングのひとつだ。




 そして彼女の裁判に向けて、黒人教師、医者、弁護士、あらゆる分野のプロフェッショナルが結集された。

 

  その頃、独房の中にいたアンジェラは、孤独、恐怖、不安と戦い続けた。

「刑務所という場所は、囚人の正気を失わせるか、その人を強くさせるかのどちらかだ」

 というジョージの言葉を思い出し、彼女は強くなることを選択し、ひたすら本を読み、執筆し続けた。

 孤独と戦い続けるアンジェラのために、ニーナ・シモーンは風船を送った。ニーナ・シモーンの大ファンだった彼女は、その風船の空気が抜けきるまで大切にした。

 東ドイツの子供たちからは、彼女を激励する手紙が届いた。宛先は、「アンジェラ・デイヴィス U.S.A.」だ。

 この間一度だけ、彼女はジョージと面会するチャンスを得た。彼女はジョージのいる部屋に入るやいなや、彼を抱きしめ、キスをした。そして彼らは、互いの体に触れあった。彼らは、人間のぬくもりに飢えていた。

 

 逮捕から16カ月後、彼女はついに釈放される。その保釈金を支払ったのが、アリサ・フランクリンと、白人農場経営者のロジャー・マカフィーだ。

 ロジャーの農場は、カリフォルニアでも特に保守的な地域にあった。彼は家族を守るために、セキュリティを雇い、仕事中も常にライフルを携帯しなければならなかった。しかし彼は正義を貫いた。 

                                                                                           

 世界中が注目する裁判は、1972年3月にはじまった。
 アメリカ政府、FBIの期待を背負うハリス検察官は、どんなことをしても彼女に死刑、もしくは終身刑を与えなければならなかった。
 そこでハリスは変更した。彼女は愛するジョージを救いたい一心で銃を購入し、ジョナサンを利用したという作戦に、だ。。犯行動機は女性の止められない恋心だ。

 彼女が牢屋からジョージにあてた手紙も公開された。たしかにその内容は、恋文とも呼べるものだった。

 さらにハリスは、彼女が殺人犯、誘拐犯、共謀犯であることを証言する目撃者を、百人以上準備した。彼はとても優秀だった。

 しかも陪審員は全員白人だ!

 

 しかし、彼女の弁護人のリオ・ブラントンはそれ以上だった。彼は、陪審員の同意を得るためのテクニックを心理学者から学んだ。そして、目撃者の信頼度を崩すためにエキスパートを雇った。

 アンジェラジョージに宛てた手紙は、人との触れ合いのない、特殊な環境下で書かれたものだ。彼女の状況を唯一理解できるジョージに宛てた手紙が、エモーショナルなものであることは、当然だった。

 また、FBIから目をつけられていた彼女が、保身のために銃を購入するのは当然だった。

 そしてなによりも、彼女は頭脳明晰なのだ。このような短絡的な犯行を起こすはずがない。

 目撃者崩しには、ハプニングがあった。ひとりの目撃者に、

「犯人はここにいますか?」

 と問うと、

「そこにいる!この女だっ!!!」

 と、アンジェラの隣にいた別人、同じアフロ姿の女性を指さしたのだ。

 

 リオ・ブラントンの最終弁論は、

「陪審員のみなさん、今、この時間だけ黒人、もしくは奴隷になってみてください。心配はいりません。このシーンが終われば、白人に戻してさしあげます」

 という台詞から始まった。

「裁判において黒人に正義はありません。

 白人をリスペクトしない黒人は、家に爆弾をしかけられます。

 黒人が声をあげると、その中心人物は暗殺されます。

 頭のいいアンジェラが、それを知らないはずはありません。

 もし、あなたがアンジェラ、もしくは黒人で、そのことすべてを理解していれば、なぜ彼女が捕まることを恐れて逃げたかわかるはずです・・・」

 

 そして1972年6月4日、13時間にわたる審議ののち、陪審評決がリチャード・アウルトナソン裁判官に手渡された。彼は、過去の裁判において、中立公正な判断をすることで知られていた。評決を見た裁判官の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。

「判決!!

 第一級殺人罪・・・無罪!

 誘拐罪・・・無罪!

 共謀罪・・・無罪!」

 

 裁判所の外で判決を聞いた人々が叫んだ。

Power to the people(人々に力を)!・・・Power to the people(人々に勇気を)!

Power to the Jury(陪審員団に力を)!・・・Power to the Jury(陪審員団に勇気を)!」

 

 釈放後、アンジェラ・デイヴィスは執筆、講演を精力的に行い、活動家として戦い続けた。

 2020年、アンジェラは、「Time」誌の、“世界で最も影響力のある100人”に選ばれた。また、多くの雑誌やテレビ番組が、彼女にインタヴューを行っている。

 これは、彼女が訴え続けてきた、アメリカにおける組織的人種差別、刑務所ビジネス問題、警察組織の腐敗が、2020年のジョージ・フロイド事件、2021年の国会議事堂襲撃事件を機に、ようやく表面化してきたからだ。

 現在、黒人だけではなく、白人を含む、様々な人種の人々が人種差別改革のために立ち上がっている。

 アンジェラ・デイヴィスは、今、世界に何人くらいいるのかな?

  

 アンジェラ・デイヴィスの改革が成功し、彼ら黒人コミュニティに、父親のいる生活が戻ってきますように!

 平等、自由、正義が守られる世の中で、人々が笑顔で暮らせる日が訪れますように!



るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。

http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/