〇ロニーおじさんの死
「ロニーおじさんが亡くなってん」
とダンナから聞いたのは、今年の5月のはじめだった。
ロニーはダンナのいとこにあたる。けれども、年が離れていたので、彼はロニーのことをアンクル・ロニーと呼ぶ。
子供の頃、このロニーからさんざん暴力を振るわれた。
「サウスサイドのバーで、ロニーがウィスキーの瓶でおれを殴ったのが最後ちゃうかなぁ。
おれ、脳振とう起こしかけたけど、瞬きひとつせずに、ロニーの首をつかんで、宙づりにしてん。ロニーはドラッグでガリガリやったし、あの頃、おれは鍛えてて、太ももみたいな腕やったからなぁ。
あの瞬間、ロニーおれに殺されるかもって思ったんちゃう?」
と、相変わらずわけのわからない話を淡々とするダンナ。
ロニーは兄弟の中でもダークスキンなほうで、ライトスキンの母親にかわいがってもらえずに育った。
「ロニーの心がひねくれて、おかしくなっても仕方がないと思うわ」
ロニーのことは嫌いだったけれど、彼のことを理解できないわけではないらしい。そういう心の痛みを抱えた人がたくさんいるに違いない。
亡くなる一年前、疎遠になっていたロニーと電話で話す機会があった。
「ロニーもただのおじいちゃんになってもた。ロニーと一緒に“ドント・ウェイスト・オヴ・ユア・タイム(おまえの時間をむだにするな)”を歌ってん」
この曲はザ・ファイヴ・ステア・ステップスによって1965年にリリースされた。音楽だけが娯楽だった彼らには、人生のそれぞれの場面に、必ず思い出の歌がある。
ちなみに、 “ファースト・ファミリー・オヴ・ソウル”と呼ばれたこのグループのメンバーは、彼らの近所で暮らす5人の兄弟だった。
〇徴兵拒否
そんなロニーのことで、ダンナが尊敬していることがひとつある。
「ロニーは徴兵拒否して、牢屋に入れられてん。警官から相当殴られたと思うわ。それでも戦争に行かなかったロニーはえらいっ!
黒人をゴミみたいに扱うこの国のために、おれらが命をかけて戦いたいと思う?おれらは人殺しじゃないで」
ロニーは誰にも媚びず、誰のことも信用せず、誰の命令にも従わず、自分のことを見下す相手を決して許さなかった。貧乏で何も持たないロニーが、黒人として誇り高く生きるためにできる唯一のことだ。
この話で思い出す人物といえば、世界ヘヴィー級チャンピオンのモハメド・アリ。
「戦争はコーランの教えに背くことになるからね。アラーの神は、おれらに戦争の片棒を担げとは言ってないよ。この国でニグロと侮蔑されて、人として当たり前の権利すら与えられてないおれらが、なんで数万マイルも離れた場所まで行って、ブラウンスキンのベトナム人を殺さなあかんの?おれはベトコンにはなんの恨みもないで。彼らはおれのことをニガーと呼ばないからね」
1966年、アリはこう言って、兵役を拒否した。
このことで有罪判決を受けた彼は、アスリートとして、最も力を発揮できる25歳から29歳までの約4年間、リングに立つことができなかった。ボクシングタイトルも剥奪された。
つまりボクサーとしてのキャリア、名声、財産、すべてを犠牲にしても、彼の信念と、黒人としての誇りを貫いたのである。
「おれの敵は白人や。ベトコンでもチャイニーズでもジャパニーズでもないよ。この国で自由、正義、平等を奪われたおれらのために、奴ら白人が立ち上がってくれることはない。でも奴らは、そんなおれらに対して、よその国へ行って戦ってこいって言うねん。おかしくない?」
という彼のスピーチは、
「徴兵される黒人の数は、他の人種よりも多く、そしてその多数が最前線で戦わされている。我々黒人は、母国から民主主義の恩恵を受けていないにも関わらず、民主主義を守るために、戦争へ狩りだされ、命を失っている!」
というキング牧師の思想をサポートし、戦争支持率の低下をもたらした。
〇モハメド・アリVSフロイド・パターソン
モハメド・アリの試合の中で印象的だったのが、1965年のフロイド・パターソンとの戦いだ。
1962年にネイション・オヴ・イスラムに加入し、白人社会を批判するアリを倒すために担ぎ出されたのが、元ヘヴィー級チャンピオンのフロイドだった。
「カシアス・クレイは、白人が俺の先祖に与えた奴隷の名前や。俺は奴隷じゃない。俺はモハメド・アリや」
とリングネームを改名していたにも関わらず、試合前の会見で、フロイドはアリを「カシアス・クレイ」と呼びつづけた。そして、白人側に立ったフロイドのことを、アリは「アンクル・トム」と罵倒した。
アリはこの試合中、
「おれの名前を言ってみろ!」
と叫びながら、フロイドを殴り続けた。
ファイターとして憧れていたフロイドが、白人の言いなりになり、黒人としての誇りを捨てたことが、アリには許せなかった。
〇軍隊から脱走したマジック・サム
アリやロニーは徴兵を拒否したけれど、ブルーズ・ミュージシャンのマジック・サムは、入隊直後に軍隊から脱走している。彼は人殺しではなく、音楽を演奏したかった。
マジック・サムは、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイとともに、新世代ギターリストと呼ばれ、マイク・ブルームフィールド、エルヴィン・ビショップなど、ブルーズロックの白人ミュージシャンに影響を与えた。
しかし、彼は不運なミュージシャンでもあった。
サムは、1957年にコブラ・レコードから最初の曲をリリースした。
けれども、実はその少し前に、チェス・レコードから契約を見送られている。彼のステージネームの、“グッド・ロッキン・サム(Good Rockin’ Sam)”が、他のアーティストによって、すでに使われていたからだ。
ウェストサイドにあるコブラのスタジオでレコーディングされた、彼ら新世代の曲は、“ウェストサイド・サウンド”として、シカゴではポピュラーだったが、やはり大手のチェスとは比べ物にならない。
さらに、サムが曲をリリースしたその翌年、コブラは経営状態の悪化で倒産している。
同じ年、徴兵された彼は軍隊から脱走し、6か月の禁固刑と懲戒免職を命じられた。
1960年、彼は音楽活動を再開したものの、軍隊から逃げ出した事実は、彼から自信と心の安定を奪った。
ちょうど1950年代のブルーズ全盛期が終わりつつあった。ロックンロールも暗黒の時代に突入、ロックやフォーク・ソングの到来には早すぎるという時代だった。
そんな彼がようやく自信を取り戻し、1968年にデルマーク・レコードからリリースしたアルバムがブラック・マジック(Black Magic).
「これがおれのベストアルバムや!」
と言った彼は、その1年後の1969年12月に心臓麻痺で亡くなった。
彼はもともと心臓にトラブルを抱えていたけれど、彼もまた、戦争によって傷付き、ミュージシャンとしてのキャリア、大切な時期を奪われた中のひとりだった。
さて、この記事を書いているときに、映画「アリ」で主役を演じた俳優のチャドウィック・ボウズマンの訃報が飛び込んできた。43歳という若さだった。
〇チャドウィック・ボウズマンの遺作
チャドウィック・ボウズマンは、「ゲット・オン・アップ」では、ファンクの父と呼ばれ、黒人解放運動に力を注いだエンターテイナー、ジェイムス・ブラウンを、「マーシャル」では、アフリカンアメリカン初の最高裁判所判事、サーグッド・マーシャルを演じている。
「メジャーリーグがそうだったように、ハリウッドでも、黒人が白人と同じチャンスを得ることはない」
と語るチャドウィック・ボウズマンは、公民権運動で苦悩し、戦うレジェンドたちの姿を見事に演じきった。
また、アメリカンコミックを映画化した「ブラックパンサー」では、スーパーヒーロー役を任された。黒人が、子供たちの憧れるスーパーヒーローになったのだ。俳優も、映像作家も黒人を採用したこの映画は、ハリウッドにおけるBLM運動のひとつといってもいい。
「俺たちは、黒人のためのスクリーンはない、黒人のためのステージはないと言われてきた。俺たち黒人は、下は知っているけど、上は知らない。だからこそ、あきらめずに毎日がんばり続ける。黒人は、自分たちが望んでいた世界を、もっと素晴らしい世の中を、自分たちの力で創り上げられる。俺たちは、そのことを知ってたはずや」
ボウズマンは、彼が役者であることの意義と、彼の演技が世の中に与えるインパクトの大きさを理解していた。
そんな彼の遺作のひとつが、スパイク・リー監督の、「ザ・ファイヴ・ブラッズ」だ。
戦争から半世紀を経て、4人の帰還兵が、ボウズマン演ずる黒人部隊の隊長の亡骸と、埋葬金を探すために、ベトナムへ戻ってくるというストーリー。
スパイク・リー監督はこの映画で、帰還兵たちの心の傷を描くとともに、ベトナムの人々が、戦争から50年近く経った今も、その後遺症で苦しんでいる事実を伝えた。
https://www.youtube.com/watch?v=B_5Gqi6otlI
人を傷つけ、血を流す戦いによって得られることはなにもない。そのことを、彼ら黒人は誰よりも知っている。
黒人の自由と権利獲得のために、ひとりの人間としての尊厳を守り、黒人として誇り高く生きるために、彼らレジェンドたちは暴力に耐え、非暴力で戦い続けた。
チャドウィック・ボウズマンは、そんなレジェンドたちの姿をスクリーンに蘇らせ、その功績を人々に伝えた。そして彼は俳優として、ハリウッドにおける人種差別と戦い、世の中における黒人のポジションを高めるために邁進した。
チャドウィック・ボウズマンの冥福をお祈りするとともに、彼らの努力が、一日も早く実ることを願っています。
この世の中から戦争が亡くなって、世界中の子供たちがニコニコ笑顔で生きられる、そんな世の中になりますように。<了>
るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。