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〇ジミー・ジョンソンの音


 数年前のある日、B.L.U.E.S.というクラブの前を通りかかると、中からものすごくファンキーなサウン ドが聞こえてきた。
「わーーーーっ!!!カッコええ!!!」
 と、迷わず店の中に飛び込んだ。
 リード・シンガーはジミー・ジョンソン(Jimmy Johnson)、ギターはシカゴの若手ギターリスト、チコ・バンクス、ベースはダンナだった。
 シカゴへ来て、ちょうど2か月が過ぎた頃で、ジミーのことも、チコのことも、ダンナのことも知らなかったけれど、彼らの音にあっという間に魅了された。

エヴリー・デイ・オブ・ユア・ライフ
ジミー・ジョンスン
Pヴァイン・レコード
2020-04-15


 ジミーのバンドからダンナに声がかかったとき、彼は嬉しくて嬉しくて、一週間ずーっと練習していたそうだ。

「ジミーのブルーズはファンキーやから、おれら若い奴らも大好きやねん・・・・でも、ジミーは意地悪やったでー」

 多くの黒人は、経済的、社会的平等を彼らから奪い続けるこの国や、決して成功しない己の人生に対して怒っている。ダンナもそのうちのひとりだ。そんなダンナが、

「おれらのおやじや、おやじから上の世代は、おれらどころじゃないで。想像すらできへんわ」

 とよく言う。まさにジミーの世代だ。意地悪でも仕方がないのかもしれない。
 
 さて、ジミ―・ジョンソンの名前はあまり知られていないかもしれないけれど、彼の弟で、ソウルシンガーのシル・ジョンソン(Syl Johnson)を知る人は多いかもしれない。
 ダンナは、シルのことを、

「歩く意地悪みたいな奴や。ジミーどころじゃないで!」

 と言っていた。

 シル・ジョンソン(本名:シルベスター・トンプソン)は1936年、ミシシッピ州、ホリースプリングスという場所で生まれた。


 彼らの先祖は奴隷で、お父さんの代でプランテーションを購入した

 とはいうものの、その暮らしは決して楽ではない。
 トンプソン家の7人の子供たちは、生活を支えるために、まともに小学校へ行くことも許されず、朝から晩まで綿花畑の仕事を手伝わなければならなかった。 
 そんな生活の中、コットンを積んでいるときにやってくる小鳥のさえずりを聞くことが喜びだったというシルは、歌うために生まれてきたような子供だった。
 貧乏だったので、パパはハーモニカしか買えなかった。けれども、パパもおじいちゃんもシンガーで、兄弟皆が、歌や楽器を演奏できる、音楽の才能に恵まれた一家だった。

 ジム・クロウ法のあるミシシッピ州で、終日綿花を摘む生活を、一生続けたいと望む者は誰もいない。
 長男のジミーは16歳になると、新しい生活を求めて、メンフィスへ移り住み、その数年後には、おじさんを頼ってシカゴで暮らし始める。
 シカゴで溶接工として働き始めたジミーは、ママと、弟や妹たちを呼び寄せるために必死で働き、貯めたお金を故郷へ送金した。
 そしてママはそのお金を握りしめ、娘たちを連れてシカゴへと向かった。
 しかし10歳のシルと、12歳のマックだけは、綿花畑にとり残されてしまう。
 実は、シルとマックが、ママに捨てられたのは、これが二度目だった。一度目はシルが2歳のときだった。
 それでも、二人は綿花畑の仕事を手伝い続けていくうちに、パパはとんでもなく意地が悪く、ママに対して暴力をふるう卑劣な男だったことに気付く。
 そして、
「俺らもママたちがいるシカゴへ行きた~い!!!」
 と思ったシルとマックは、盗んだコットンを売り、そのお金でシカゴへのチケットを買った。

 シルが来た頃のシカゴは、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、ジュニア・ウェルズ、リトル・ウォルターなどのスーパースターたちが活躍する、まさにブルーズ全盛期だった。
 シルは仕事が終わると、毎晩のようにクラブへ行って、彼らの演奏を楽しんだ。

〇隣人がマジック・サム!?

 また、幸運にも、ジミーが借りた家の隣人が、たまたまマジック・サム(!)だったこともあり、彼らはステージで演奏する機会にも恵まれた。
 マジック・サムといえば、1969年に発売された、「アン・アンバー・ブルーズ・フェスティバル」のライブ・アルバム。ベースとドラム、そしてサムのギター&ヴォーカルの3ピースだけれど、その迫力ある、ファンキーなブルーズは、多くの人を感動させた伝説のギタリストである。

 
 マジック・サム、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイの3人は、マディ・ウォーターの次の世代に当たる。彼ら新世代ギターリストたちは、オリジナルのシカゴブルーズに、新しい風を吹き込んだ。
 彼らは、T・ボーン・ウォーカーやBBキングの影響もあり、ギターをリード楽器として使い、その奏法をさらに発展させている。マジック・サムはトレモノというバッテリーの使用や、リズム・ギターの奏法を追及したことでも知られている。
 彼は栄養失調と心臓病のために30歳という若さで亡くなっている。ブルーズファンの中では、今でも語り継がれるレジェンドのひとりなのだ。

〇シル・ジャクソンのソロ・デビュー

 話は戻って、シルも多くのブルーズ・レジェンドたちと演奏したけれど、彼にとってブルーズは、父親世代の音楽。彼は、ブルーズではなく、ブルージーだけれど、もっとソウルフルでファンキーなサウンドに興味があった。
 1959年、シル・ジョンソンはフェデラル・レコードから、「ティア・ドロップス(TearDrops)」というシングルをリリース、ついにソロ・デヴューを果たす。
 このとき、フェデラル・レコードのオーナー、シド・ネイサンが、

「シルヴェスター・トンプソン・・・お前の名前、政治家みたいや」

 と言って、“シル・ジョンソン”というステージ・ネイムを命名してくれた。

 シド・ネイサンはジェームズ・ブラウン(JB)と契約したものの、JBの音楽をまったく理解せず、レコーディングの費用すら負担しなかったことで知られているけれど、シルのことは気に入っていたようで、スタジオまで毎日送迎をしてくれたらしい。
 さて、名前は政治家からスターのようなサウンドになったけれど、ポップなサウンドの「ティア・ドロップス」はまったく売れなかった。
 1960年代に入ると、シルはシカゴのR&B、ソウルミュージックのマイナー・レーベル、トゥワイナイト・レコードから曲をリリースする。
 1967年、「カム・オン・ソック・イット・トゥ・ミー(Come on Sock it to Me)」がブレイクすると、「ディファレント・ストロークス(Different Strokes)」、「イズ・イット・ビコーズ・アイム・ブラック(Is It Because I’m Black)」、「コンクリート・リザヴェーション(Concretereservation)」など、次々とヒット曲を生み出す。
 シルが書く曲の多くは、黒人としての心の痛みや、政治的なことが多い。特に、キング牧師が亡くなった翌年、1969年にリリースされた「イズ・イット・ビコーズ・アイム・ブラック」は、多くの黒人の心に響いた。その歌詞は,

「俺の夢がかなわないのは、俺の肌が黒いから?この世界に哀れみなんてない。ママはペニー
を稼ぐために必死で働いてる。でも、あなたは俺たちを押さえつけて、俺たちを踏みつけて、
前に進めないように、邪魔し続ける。それは俺らが黒人だから?
 俺だってあなたと同じように、ダイヤモンドのリングが欲しいし、キャデラックに乗りたい
よ。俺はどんなことをしてでも、いつかはあなたの抑圧を振り切って成功する。俺はそう信じ
てる」

 という、彼ら黒人の純粋な疑問、心の内を歌ったものだった。そしてこの曲は、ビルボードのR&B部門で11位を記録した。
 トゥワイナイトが扱ったアーティストは数えるほどで、シルは、ここのメイン・アーティストとしてはもちろん、プロデューサーとしても、その力量を発揮した。しかし、トゥワイナイトはシルに対して、何もしてくれなかった。

〇ハイ・レコードの全盛期

 そこで1971年、シルはメンフィスのソウル・レーベル、ハイ・レコードへ移籍する。
 ハイ・レコードの全盛期といえば、アル・グリーンが活躍した1970年代前半。その頃のレコーディングのほとんどが、プロデューサーのウィリー・ミッチェルのロイヤル・スタジオで行われていた。

 ここのハウス・バンド、「ハイ・リズム・セクション」が作り出すサウンドは、ハイ・サウンドとして世界的に知られている。バキバキのドラム、ファンキーなホーンセクションとギターの演奏は、たまらなくカッコいい。 

 そんなバンドのメンバーたちも、シルとのレコーディングを楽しみにしていた。彼の歌声は力強いけれど、スムーズで、とても魅力的なのだ。
 実は、プロデューサーのウィリー・ミッチェルは、レーベルのシンガーとして、シルを売り出すことを切望し、アル・グリーンがハイに入る以前から、何度もシカゴへ足を運び、シルに移籍を勧めていた。
 しかし、シルは、自分がどうなるのかわからない、前の見えない状況に、足を踏み出すことができなかった。そして、やっと重い腰を上げたときには、すでにアル・グリーンがレーベルのシンガーとして活躍し始めていた。
 それでもシルは、このレーベルで3枚のアルバムをリリースし、ヒット曲もいくつか出している。中でも、アル・グリーンが作曲した「テイク・ミー・トゥ・ザ・リヴァー(Take Me ToThe River)」は、1975年にR&Bチャートで7位を記録した。

 この曲は、アルとシルの2ヴァージョンがある。アルのヴァージョンを知っている人の方が多いかもしれないけれど、実は、アルはシングルではリリースしていない。これはシルのために作られた曲だった。
 これは、レーベルの流通を支配するロンドン・レコードが、アル・グリーンを売り出すことだけに力を入れた結果だった。その頃、黒人アーティストを必要としていたロンドン・レコードは、多額の宣伝費を投入し、アル・グリーンをスーパースターに仕立てることに成功した。


 一方、スーパースターになるチャンスを逃したシルは、そんな人生に、そんな自分自身に怒りを抱くようになり、次第にショウ・ビジネスに対する興味を失ってしまう。
 実際、1980年代半ばから1990年は、音楽業界からほぼ引退し、彼はフランチャイズのシーフード・レストランを経営している。
 シルがレストランビジネスに失敗し、すべての店をクローズした頃、アメリカの音楽シーンは、R&Bからヒップホップへと変わってしまっていた。
 ある日、仕事のないシルの元に、ラッパーのBossから、シルの曲をサンプリングしたという手紙と、そのサンプリング代のチェックが届いた。
 これを受け取ったシルはひらめいた.

「俺の曲をサンプリングされてるレコードを見つけた人には100ドルやるっ!」

 と、近所の人に声をかけると、現金が必要な彼らは、こぞってレコード屋に向かった。
 そして、N.W.A.、カニエ・ウェスト、2PAC、ウィル・スミス、Jay-Zなどのラッパーはもちろん、マイケル・ジャクソン、アッシャーなどなど、多くのアーティストが彼の曲をサンプリングしていたことを知る。
 シルは、これらの曲でゴールドディスクや、プラチナディスクを手に入れたアーティストとレコード会社を片っ端から訴えた。
 そして、手に入れた和解金で、彼は庭付き一軒家を購入することに成功するのだ!
 また、1994年には、シルの娘で、R&Bシンガーのシリーナ・ジョンソン(Syleena Johnson)をフューチャーしたアルバム、「バック・イン・ザ・ゲーム」をリリースし、彼は音楽業界への復活を果たす。

 

 さらに2010年、シカゴのレコード・レーベル、ザ・ヌメロ・グループ(The Numero Group)が、1959年から1972年にリリースされたシルの曲を集めて、「コンプリート・ミソロジー」を発売した。


 ザ・ヌメロ・グループは、ビルディングの地下を利用した、若い人たち(白人)だけで構成された小さな会社だ。過去にリリースされたけれど、大成功に至らず埋もれてしまった曲を集めて、再発行している。
 彼らがシルにはじめて連絡を取ったとき、シルは、

「おれの曲を使うな!おまえらを訴える!」

 と、彼らを脅したそうだ。

 それでも、シルは彼らに心を開いていく。
 彼らのインタヴューを聞いていると、彼らの音楽に対する深い愛と、アーティストに対する敬意が感じられる。シルも、それを感じたに違いない。
 そしてシルのアルバムは、ヌメロの若者たちによって、再び世に送り出された。そこにはアーティストとしてのシルに対する愛とリスペクトが詰まっている。

 彼らから、「コンプリート・ミソロジー」を受け取ったシルは、子供のようにはしゃいでいた。
 2011年、このアルバムは2部門でグラミーにノミネートされたけれど、残念ながら受賞には至らなかった。

「タキシードを着て、会場まで来る必要なかったやん!」

 と文句を言うシルに、ヌメロ・グループのロブは、こっそり自分の持っていたメダルをプレゼントした。

 後日、ヌメロのメンバーをバーベキューパーティに招待したシルの首には、そのメダルが誇らしげにかけられていた。
 シルは、二度もママに捨てられて、深く傷付いていた。どんなにがんばっても、いつもタイミングを逃し、ブレイクできなかった。若いアーティストたちは、彼の曲を使って、金儲けをしていた。
 彼は子供の頃からずっと、愛に飢え、思い通りにいかない人生に怒っていたのだ。

 そんな彼に手を差し伸べ、敬意を払い、彼をちょっぴり幸せな気分にしてくれたのは、音楽を心から愛する、白人の若者たちだった。
「俺の才能を認めてくれたことが嬉しい」 
 と言っていたシルのその顔は、とても穏やかで、そして幸せそうだった。<了>



るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。

http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/