John_Carlos,_Tommie_Smith,_Peter_Norman_1968cr
 前回、ダンナがシャイ・ライツ(The Chi-Lites)のツアーでニューオーリンズへ行ったときの出来事を書いた.

  このグループ、私がシカゴへ移り住んだら、絶対に見たいと思っていたバンドのひとつ。

  シカゴといえば、シャイ・ライツ。

   シャイ・ライツは1970年代に大成功をおさめた、シカゴベースのR&B、ソウルのヴォーカルカルテットなのだ。

 実はダンナはこのバンドで仕事を始める少し前、彼は3歳になる息子を亡くし、深い悲しみの中にいた。折も折、ベーシストを探していたシャイ・ライツに、彼の友だちが紹介した。

「俺に元気を出して欲しくて、シャイ・ライツの仕事を紹介してくれたんちゃうかなぁ・・・」

 と、今になって彼は思っているそうだ。

 彼にとっては子供の頃からラジオで聞いていた憧れのグループ。

 なんと最初のショウは、ワシントンDCでスタイリスティックス(The Stylistics)、ドラマティックス(The Dramatics)、デルフォニックス(The Delfonics)など、憧れのR&Bヴォーカルグループとの共演。ステージの袖から目をまん丸にして彼らのショウを観ていたそうだ。

 もともとシャイ・ライツは1959年にマーシャル・トンプソン(Marshall Thompson)によって結成された。当初はマーシャル&ザ・ハイライツ(Marshall & The Hi-Lites)というグループ名で、メンバーはユージーン・レコード(Eugene Record)ロバート・スコレル・レスター(Robert Squirrel Lester)、クレデル“レッド”ジョーンズ(Creadel“Red”Jones)、クラレンス・ジョンソン(Clarence Johnson)。ロバート以外はみんな、シカゴ生まれのシカゴ育ちだ。

 1964年、クラレンスが脱退し、バンドはカルテットのヴォーカルグループになる。このときグループ名もマーシャル&ザ・シャイ・ライツ(Marshall&The Chi-Lites)に改名。これはマーキュリーレコードのオーディションを受けたときに、たまたま同じ名前のグループがいたため、Chicagoの「C」を頭につけて、急遽、名前を変えたという次第だ。よって1967年の後半にリリースされたアルバムからはマーシャル(Marshall)もなくなって、ザ・シャイライツ(The Chi-Lites)になっている。

 

 率直にいって、この時代の彼らのサウンドは、ドリフターズ(The Drifters)、デルズ(The Dells)、インプレッションズ(The Impressions)、スタイリスティックス(The Stylistics)などのサウンドとクロスオーバーしていた。独自のサウンドが見つかっていなかった。音楽だけでは食べていけず、
ユージーンはタクシードライバー、スコレルは工場、クレデルは郵便局で働きながら、夜になるとクラブで演奏する毎日をおくっていた。

 1967年は、バックコーラスの仕事もいくつかしている。誰もが聞いたことのあるジャッキー・ウィルソン(Jackie Wilson)の「Higher Higher」、スモーキー・ロビンソン(Smokey Robinson)の「More Love」、テンプテーションズ(The Temptations)の「You’re My Everything」のバックコーラスはシャイ・ライツなのだ。

 ある日、マーシャルが仕事を求めて、シカゴのサウスサイドにあるリーガル・シアターへ行くと、その日のパフォーマーのグラディス・ナイト&ザ・ピップス(Gladys Knight & the Pips)が、3時間後に始まるショウのドラマーを探していた。

「ヘイ!ミス・グラディス!俺、ドラム叩けるで!」

 実はマーシャルはドラマーでもあった上に、彼らの曲をすべて覚えていた。そしてマーシャルはその日の演奏に加えて、3週間のツアーの仕事までゲット。

 グラディスの全米ツアーから帰ってきたマーシャルは、

「俺、全国のクラブとつながりができたから、俺らもツアーに行くで!昼間の仕事はやめて、音楽だけで食べていこう!」

 とメンバーに声をかけた。

 といってもそう簡単に売れるわけではない。

 その時代、R&Bといえばモータウン。ある日、そのモータウンのアーティスト、ボビー・テイラー&ザ・ヴァンクーヴァーズ(Bobby Taylor & The Vancouvers)と共演する機会があった。マーシャルボビーに、

「俺らをモータウンに紹介して~」

 とお願いしていると、ステージからマイケル君のかわいい声が聞こえてきた。その日のオープニングは、タレントショウで優勝したザ・ジャクソン5(The Jackson 5)。

「あれ、誰や!?」

 以前からジャクソンファミリーをステージにあげて、かわいがっていたマーシャルは、ボビーにマイケル君を紹介、ボビーはジャクソン5をモータウンへ連れて行った。

「ジャクソン5はダイアナ・ロスが発掘したことになってるけど、ホンマはボビーが見つけてん。それから数週間後には、紹介した俺らがジャクソン5のオープニングをつとめることになってしもた」というお話。


 ハイ・ライツ時代から何枚かシングルは出していたけれど、彼らがビルボードR&Bのヒット・チャートに上がってくるのは、1971年の「Are You My Woman?(Tell me so)」から。ちなみにこの曲は、2003年にビヨンセ(Beyonce)がリリースした「Crazy In Love」のサンプリングソング。

「俺ら、なーんにもしてないのにグラミー獲得や~」

 とニコニコ顔のマーシャル

 続いてリリースした曲が、「Have You Seen Her?」。離婚したユージーンの寂しい胸の内を書いた曲で、これがR&Bチャート1位を記録する。

 そして彼らはこの曲で、ソウル・トレイン(Sol Train)の記念すべき第一回ゲストとして出演。ソウル・トレインは、シカゴ発の歴史的黒人音楽番組だ。この番組を観ずに育った黒人はアメリカにはいない!と断言してもいいくらい。

 そして1972年、フリップ・ウィルソン・ショウ(Flip Wilson Show)に出演し、彼らは大ブレイクをする。フリップ・ウィルソン・ショウは、はじめて黒人の名前がタイトルになった、白人の間でも人気を得た番組だ。

 このとき、シカゴの凄腕プロデューサー、カール・デイヴィス(Curl Davis)のアイデアで、まだリズムしかできていなかった「Oh Girl」を歌うことになる。

 この曲はどんぴしゃ、白人にも好まれるサウンドだった。カールのアイデアは大当たり、番組が終わった瞬間からリリースを求める電話が鳴りやまない。リリースをした3週間後には、ポップチャート1位に躍り出ていた。

「俺、ザ・R&Bのサウンドが好きやったから、白人よりのこの曲が大嫌いやってん・・・でも、この曲でお金が入ってきたから、今は俺の一番のお気に入り~。俺らのサウンドはスムース・ソウルやね~ん」

 とマーシャル

 お金持ちになった彼らは衣装を買いまくり、世界ツアーへ行き、女の子にモテまくり、ホテルで贅沢三昧。ホーンセクションも加わり、豪華フルバンドで演奏している時代もあった。ダンナもこのバンドで全米ツアーやジャマイカへ行っている。ちなみに、ジャマイカで一番盛り上がる曲は「Marriage License」。

 ジャマイカツアーを満喫したダンナだけれど、結局、このバンドには2年もいなかった。その理由は、

「金くれない」、

 ・・・どうやらその頃には使いすぎて、お金が底をつきていたらしい。

 さて、シャイ・ライツで決して忘れられない映像が、ソウル・トレインで歌った「(For Gods Sake)Give More Power To The People」。
 この曲がはじまる前、メンバーとソウルトレイン・ダンサーたちが握りこぶしをあげている。
 これはブラックパワー・サリュート、またはブラックパワー・フィストと呼ばれ、連帯、サポート、ナショナリズムを表し、黒人差別に対する無言の訴えを示すシンボル。この会場に広がる静寂、彼らの無言の叫びに心を打たれたのは私だけではないと思う。

 このパフォーマンスの4年前、1968年10月に行われたメキシコオリンピックで、二人のアスリートが表彰台の上でこぶしを掲げた。男子200メートルの金メダリストのトミー・スミス(Tommie Smith)と銅メダリストのジョン・カルロス(John Carlos)だ。

 1968年は、ベトナム戦争中のアメリカ軍が、無抵抗の村民504人を無差別射撃をしたソンミ村虐殺事件が3月16日にあり、国内では反戦運動が激しくなっていた。
 その半月後の4月4日、キング牧師が暗殺、国内では百カ所以上の都市で暴動が発生。
 そこで、この大会が黒人アスリートと、全世界のマイノリティの人権を訴えるにふさわしい場所だと考えたOlympic Project For Human Right(OPHR:人権を求めるオリンピック・プロジェクト)は、黒人コーチの採用、アパルトヘイト政策下にあるサウスアフリカとローデシア共和国のオリンピックへの招待、
モハメド・アリのボクシングタイトル返還などを求めて、ボイコットを企てた。
 しかし、スミスとカルロスは、メダルを獲得し、その成果と引き換えに世界中のマイノリティの人権と自由を訴えれば、さらに大きな変化を求めることができると考えた。

 そして彼らはみごとメダル獲得。

 黒いハイソックスだけの足元は、アメリカ全土に広がる黒人の貧困を、首にかかったビーズはアメリカ南部のポプラの樹にぶら下がった黒人、リンチの歴史を表し、高々とかかげられた彼らのこぶしは、彼ら黒人の誇りを象徴した。二人の黒人アスリートが協力し合い、理不尽なシステムに対抗するために立ち上がった瞬間だった。

 このとき銀メダルを獲得したオーストラリア代表のピーター・ノーマン(Peter Norman)は、OPHRのバッチを胸につけていた。二人が使っている黒手袋は、手袋を忘れたカルロスのために、ノーマンが差し出したものだった。

 二人はオリンピック協会から追放され、ノーマンも故郷に帰ってから激しい批判を受け、二度とオリンピックに出場することはなかった。

 二人は自らの人生をかけて、彼らのこぶしを高々と掲げた。そんな彼らのブラック・パワー・サリュートに魂を揺さぶられた黒人は多かったと思う。

 そしてソウル・トレインでのブラック・パワー・サリュートには、そんな二人に対するリスペクトも込められていたに違いない。

 我が家では、この曲のイントロが始まると、ふたりでこぶしを掲げる。ダンナがこのポーズをするとき、深い怒りと悲しみが、彼の心を埋め尽くしているのだと思う。そんな彼の心を理解することは、私にはできないけれど、ダンナが、彼ら黒人が心穏やかに暮らせる日が来て欲しいなぁ・・・と強く願いながらこぶしを掲げている。

 2019年、最後のオリジナルメンバーのマーシャル・トンプソンが引退。彼は77歳まで、60年間ずっとステージに立ち続けた。現在は、若いメンバーたちが彼らの美しいサウンドを引き継いでいる。そのメンバーのほとんどが、シカゴ生まれのシカゴ育ち。

「どこに行っても、俺らの帰る場所はシカゴ!シャイ・ライツはシカゴベースのソウルバンド!」

 とマーシャルが言っていたことを思い出す。

 最後に、シャイ・ライツならではの美しい一曲、
」。

 これはパートナーを亡くした男の悲しい心を歌っている。この国で暮らす黒人が大切な人を失うリスクはとても高い。そんな彼らの心を歌った、心にしみ渡る一曲なのだ。<To be continued>

The Coldest Days of My Life
SOLID/BRUNSWICK
2013-07-10






るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/