これはダンナがザ・シャイ・ライツ(The Chi-Lites)で演奏していた頃なので、1980年代後半から1990年前半の話のお話。
ザ・シャイ・ライツはマーシャルによって1959年にシカゴで結成されたR&Bバンドだ。
演奏ツアーでニューオーリンズへ行ったときに、ひとりでフレンチクウォーターにあるバーへ立ち寄った。フレンチクウォーターはバーやレストランが立ち並び、観光客が多く訪れることで有名な観光エリアだ。
彼が店の中に入るやいなや、
「おまえがおるべき場所に帰れっ!」
と言って、店の女オーナーが彼にライフルを突き付けた。
その様子を見ていた客は、皆げらげら笑っていたそうだ。
ダンナが楽屋に戻ってそのことを話すと、マーシャル・トンプソンは、
「おまえ、ここをどこやと思ってるねん。南部やぞ」
と、当たり前のように言った。
リーダーのマーシャルも、他のメンバーも彼より20歳くらい年上で、それまでに何度も全米ツアーしていた。テノールのロバート・スコレル・レスターはミシシッピ州出身なので、彼らは南部の現実を、これまでに何度も見てきていたに違いない。
いわゆる南北戦争は,「市民戦争」(Civil War)と呼ばれている。
1861年に合衆国北部諸州と、奴隷制存続を望んだアメリカ連合国(アメリカ南部11州)とが戦った。
工業が中心の北部と異なり、南部の経済は綿花などの大規模農場が中心。白人の農場主にとって、黒人奴隷は安価な労働力だったので、手放すことはできない。
1865年に南北戦争で合衆国が勝利するとすぐに、リンカーン大統領の奴隷解放宣言が憲法で認められ、奴隷制は廃止される。
けれども、南部諸州はこれに対抗して、黒人規制法を制定。これは解放された黒人奴隷に対して、土地の移動、職業選択、法廷での証言や財産の所有に厳しい制限を設けるものだった。
この黒人規制法は、公民憲法によって翌年には廃止される。とはいえ、保守的な南部の人々は決して変わらない。
1876年にはジム・クロウ法を制定し、病院、バス、学校、レストラン、電車などの公共機関における人種隔離を行う。また、過剰な投票税をかけることで、黒人の投票を妨害、黒人が政治に参加できないシステムを作りあげた。
このジム・クロウ法は1964年に廃止される。けれども、この期間は白人によるリンチも横行、1880年から1940年の間に約5千人もの黒人が殺害されている。
北部にも人種差別はあるけれど、南部のそれはとても閉鎖的で、そして冷酷だ。
1955年にミシシッピ州で起きた“エメット・ティル事件”は、そんな南部の市民性を全世界に見せつけた事件だった。
シカゴのサウスサイドで育ったエメット・ティル(Emmett Till)は明るく、いたずら好きの男の子。14歳になった彼は、ミシシッピ州で暮らすおじさん、モーゼ・ライトの家で夏休みを過ごすそこにはいとこのウィラーやカーティスがいる。
モーゼおじさんが暮らしていた場所はミシシッピ州の北西部、ミシシッピ川とヤズー川が合流するミシシッピ・デルタにあるマニーという小さなコミュニティだ。
シカゴを出発する当日、ママのメイミーは南部のことを知らないエメットのことが心配で仕方がない。別れ際にエメットに彼の父親が使っていたリングをプレゼントした。
8月21日、マニーに到着したエメットはウィラー、カーティス、モーゼの息子のシミオンやモリースと、綿つみの手伝いをしながら、コットンフィールドを走り回って遊んだ。
彼は身長163センチ、体重も68キロ、筋肉質で大人のような体つきだったけれど、中身は14歳の男の子。
8月24日、綿つみが終わると、子供たちはお小遣いを手に「ブライアンツ(Briant's)」へ向かった。「ブライアンツ」は、白人が黒人相手に経営するグロッスリーストアだ。
このときエメットが店の中でひとりになった時間は、ウィラーと入れ替わりにシミオンが入ってくるまでの、ほんの短い時間だ。
エメットとシミオンが買物を終えて、車に戻ろうとしたとき、店番をしていたオーナーの妻キャロラインが外に飛び出してきた。
そのとき、あろうことかエメットがキャロラインに向かって口笛を吹いた!
その時代の南部では、黒人が白人女性に目を向けるだけでも危険な行為だった。
口笛を吹くことなどあり得ない。エメットの行為に驚き、恐れた子供たちは、大急ぎでその場から逃げ出した。
8月29日の夜中、午前2時半頃に、
「ここにシカゴから来た、太った男の子はおるか?」
45口径のピストルを手にしたキャロラインの夫、ロイ・ブライアントと、ロイの腹違いの兄弟、ジョン・ウィリアム・ミランがモーゼの家へやってきた。
彼らは眠っていたエメットを無理やりベッドから連れ出して質問を投げかけた。
その質問に「イエス、サー・・・ノー、サー・・・」ではなく、「イエス・・・ノー・・・」と答えるエメットに子供たちは震え上がった。
シカゴで育ったエメットには、目の前にいる男たちのことも、南部がどんな場所かということも、何も理解できていなかった。そんなエメットを、彼らはトラックに乗せて連れ去ってしまった。
約32キロの綿繰り機に有刺鉄線で繋がれ、タラハシー川に沈められていたエメットが発見されたのは、それから3日後だった。
衣類は着ておらず、人物を特定できないほどダメージが大きかったけれど、その指には父親のイニシャルが刻まれたリングが残っていた。
切り取られた舌が口の中に押し込まれ、鼻は肉切り包丁で何度も叩かれたように、線がたくさん入っていた。左目はなく、残っている右目も飛び出して、頬のあたりまでぶら下がっていた。歯はたたき折られて二本しか残っていない。
銃で撃ちぬかれたこめかみは反対側まで貫通し、耳はなくなっていた。
彼の顔の部分と後頭部は斧でかち割られて、パッカリとふたつに分かれている。そして彼のプライベートな部分も切り落とされていた。
騒動を恐れたミシシッピの保安官は、自ら埋葬許可証を手に入れ、死体が人々の目に触れる前に埋葬しようとした。
が、母親のメイミーはシカゴ市に働きかけ、遺体を取り返すことに成功。
変わり果てた姿の息子とシカゴで対面したメイミーは、世の中の人々にこの事件の真相と残虐性を伝えることを決意した。
葬儀当日、何千もの人々がエミットの遺体を見るために集まった。
彼の無残な遺体は衝撃的な事実を世間に叩き付け、これまで人種差別を見て見ぬふりをしてきた男たちを目覚めさせた。
遺体の顔写真は公開されているけれど、かなり壮絶なものだ。
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その後、ロイ・ブライアンと、J.W.ミランはエメット・ティル誘拐殺人の容疑で逮捕。
1955年9月19日から5日間に渡って行われた裁判で、最も人々の心を動かしたモーゼの証言シーンを再現してみよう。
「8月28日の夜に私の家へ来て、エメットを連れ去ったのはこの二人です。そして、私はその日以降、生きているエメットに会っていません」
白人主体の裁判で、黒人のモーゼが、白人のブライアンとミランを指さした。これは黒人が白人に立ち向かう、黒人が正義を貫く歴史的瞬間だ。
もちろんその日以降、モーゼの命は常に危険にさらされることになる。そしてモーゼを守ってエスコートをするNAACP(全米黒人地位向上協会)のメドガ―・エヴァーズやアムジー・ムーアも、いつ殺されるかわからない状況だ。
モーゼのほかにもうひとり、正義のために命をかけた青年がいた。ウィリー・リードはエメットが連れ去られた夜、ミランの納屋の裏で、誰かが殴られているような異様な音と泣き叫ぶ声を聞いたことを証言した。
モーゼやウィリーの証言に対し、弁護側は「メイミーがエメットの保険金目当てに陰謀を企んでいる」と主張。
キャロラインは次のように証言した。
「店の中でエメットと二人だけになった“空白の時間”に、彼が腰に手をまわし、みだらなことを言って誘惑しようとした」
ありえない。この瞬間、メイミーはキャロラインが嘘をついていること、この裁判が有罪判決になることはないと確信し、失望した。
この時代、南部で黒人に対して暴力をふるった白人に実刑判決を求めることは不可能だった。そして判決は無罪。
実際、2017年に、作家で歴史家のティモシー・タイソンが出版した著作「ザ・ブラッド・オヴ・エメット・ティル」で、キャロラインは、
「エメットは私に何もしなかった。彼が私の腰に手をまわした、という話は真実ではない」
と裁判での証言を撤回している。
南部には、“性犯罪者の黒人野獣たちが、信仰と道徳を守る南部女性をレイプし、我々の土地を支配しようとしている”という思い込みが根強く残っていた。
歴史家のティモシーは、この思いこみが事件の根底にあると考えている。
そしてこの事件は、たまたま被害者がシカゴから来たエメットで、その母親のメイミーには、メディアに公表する勇気と才覚があったから、公民権運動につながるほど大きな事件になった。
けれども、このようなリンチ事件は、南部ではそれほど珍しいことではなかった。
ここは残酷な写真ばかりなので、閲覧注意です。
裁判から4か月後、Lookマガジンにブライアンとミランのインタビュー記事が掲載された。
4千ドルのインタビュー謝礼を受け取った彼らはそこで、あっさりエメットの殺害を認め、その真相を語った。
彼らは一事不再理(確定判決が下された事件について、再度審理されることはない)の法則に守られていた。
事実、ブライアンとミランは殺害を悪いことだとは思っていなかった。
「エメットはもう死んだのに、なんで彼は死んだだけでいてくれなかったのか、俺にはわからん」
と、自分たちの罪に対する自覚はまったくなかった。
「エメットがラインを越えなければ、こんな事件は起こってなかった」
とも話していた。このラインは南北戦争の北と南のラインを指す。
南部の白人は、自由を知った黒人が南部へ戻ってくることを恐れていたのかもしれない。南部には南部の、彼らだけのルールがある。
しかし、このインタヴュー記事によって、殺害の事実はもちろん、それを無罪判決にしてしまうミシシッピの閉鎖的で陰湿な体質が、世界中に知れ渡る結果となった。
インタヴューの後、ブライアンとミランは世間から非難を受けるようになり、彼らをサポートする友人からも見捨てられ、生活は一転する。
NAACPはもちろんのこと、新聞社、コミュニティ、雑誌がこの真実を取り上げ、再調査を求めて抗議をした。
1905年の創刊以降、黒人にとって必要な情報を常に発信し続けるシカゴ・ディフェンダー(The
Chicago Defender)はブライアンとミランの判決に抗議をするため、多くの読者に投票へ行くことを促した。この無罪判決の根底には、ミシシッピ州の白人主体の議会、黒人が政治から除外され続けているという問題がある。
エメットの死は黒人たちに戦う勇気を与え、不正な裁判は、黒人たちが公民権を勝ち取るための原動力となる。公民権運動の幕開けとなる事件だった。
この10ヶ月後、ローザ・パークスのバスボイコット事件が起きる。
ダンナが、
「お前のおるべき場所へ帰れ!」
と言われたのは、そういう背景があってのこと。
その後、ミランは61歳、ブライアンは63歳で、二人ともそれぞれ癌で亡くなっている。彼らが生きていれば90歳くらい。
今でもこのような思想を持った人たちが、南部にはいるのだろう。また、その思想を受け継いでいる子供たちもいるかもしれない。
「法律は変わっても、そこで暮らす人の心を変えることはできない」
キング牧師の言葉である。
ダンナの説明によると、これまで黒人を虐げ続けた白人の男たちは、その仕返しを常に恐れている。だから彼らは今でも黒人を虐げ続け、黒人からパワーを奪い続ける。そのためには、この思想はなくてはならないものなのだ。
「白人は俺ら黒人の仕返しを恐れてるけど、俺らは仕返しなんかする気ないよ。俺らは、そんな野蛮じゃないもん。俺らはこれまでのことを謝ってくれて、おなじ人間と認めてくれて、平等な権利を与えて欲しいだけやねん」
これはダンナの言葉。
きっと、他の多くの黒人も同じことを思っている。彼らは殺されたくないし、そして誰も殺したいと思っていない。ダンナの言葉が多くの人に届いて、人の心を変えられる日が来ればいいな。
みんなが優しい気持ちで過ごせる、そんな世の中になって欲しい。
るる・ゆみこ★神戸生まれ。大学卒業後、管理栄養士で数年間働いた後、フリーターをしながらライヴへ行きまくる。2004年、音楽が聞ける街に住みたいという理由だけでシカゴへ移住。夜な夜なブルーズクラブに通う日々から一転、一目惚れした黒人男性とともに、まったく興味のない、大自然あふれるシアトルへ引っ越し、そして結婚へ。http://blog.livedoor.jp/happysmileyface/